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"Along the way"にある違和感について

ナナシスの時代・世代を超えた新曲"Along the way"がリリースされた。 一部のTwitter上では、これまでの時代・世代の設定の扱い方における齟齬に対して、またこの新曲における背景のなさに対して批判的な意見が見られた。これらの意見には概ね同意しているが、この問題は措いておいても何か別の違和感を覚えたので、ここではその違和感の正体を明らかにしたい。 制作者のコメント によると、この曲は「ナナシスの普遍性」「ナナスタにおいて受け継がれる唱歌、校歌」(岡ナオキ)やナナシス楽曲に通底する「力強さ、優しさ、儚さ」「ナナシスらしさ」(Hiroshi Usami)を感じられるよう作られたようである。 ではナナシスないし777☆Sの普遍性やそれらしさとは何だろうか。それはコニーさんから受け継がれてきた「僕は自分で選んでこうする。それじゃあ君は何がしたい?」というのが主なメッセージだった。あくまで一人称(歌い手の<僕>・聞き手の<私>)が主体。どう選ぶか、何をするかも<私>次第。ナナシスが描いてきたのは"ひとりぼっち僕らの みんなの物語"なのであり、シスターズや支配人はただその道に寄り添う。ここでの<僕ら>というのはそれぞれの<私>という個人の集まりとして「多」であり、それが「一」になることはない。しかし、ひとつにはなれないからこそ触れ合えたという実感に大きな喜びを覚える。だからこそ「力強さ、優しさ、儚さ」を感じるのではないだろうか。 他方"Along the way"においては、「君は何がしたい?」という問い掛けは薄れ、「僕と一緒にこうしよう。一緒に夢を追いかけよう。」と言う。作詞を担当した 裕野氏 も「一緒に泣いて笑って」「一緒に明日への一歩を踏み出せる」と述べる。ここでは主体は歌い手の<僕>にしかない。<僕>は夢を追いかけることこそが唯一の真理とし、その道へ連れて行こうとする。そこには、長年テーマとしてきたあの問いに答える<私>はいない(曲の頭でセリフがあるにも関わらず!)。夢や憧れに向かって駆けることしか示されている選択肢はないのだから。たとえ同じ道(夢)じゃなくても、その方角は一緒。また、ここでの<僕ら>の使い方を見ても、それは個人の集まりの「多」ではなく、差異のない「一」として捉えられる。 結局、私が覚...