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2025年なんでもBEST

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はじめに    2025年は旅の年だった。 決して物理的に遠出したわけではない。ただいろんなイベントに行き、美術展に行き、たくさんの映画の世界に浸った。そして本の虫らしく書物からそれらを解釈していた。常に私の先を行き、私から逃れ続ける言葉を追いかける日々。触れたと思えばまた逃れる言葉たち。そんな言葉を追う旅。  ここではそんな2025年の 極めて 個人的ななんでもベストを考える。 なんでもベストは、Base Ball Bear・小出祐介氏とライターの南波一海による「こんばんはプロジェクト」で 毎年恒例の年間ベストテンを発表する企画( https://x.com/LOFT9Shibuya/status/2010938703146029096?s=20 )。映画や本からYouTubeまでジャンルは不問。ただベストと言いつつランク付けは少しむずかしいので日付順で。それぞれを振り返りつつ、感想のような論考のようななにかを書き連ねる。 大村綾人のラジオ業界オモテ話(イベント)  3月30日、代々木WOOFERにて。これは少し他のものとは趣が違って、もちろんイベント自体も楽しかったけれど、加えてここでは様々な出会いがあった。2025年はこれまでで一番たくさんイベントに行ったが、ここをきっかけに現地で色んな方と会うようになって、さらにそこから新しい知り合いができたりと、イベントでの新たな楽しさがまた加わった年にもなった。このイベントでは、たまたま同時に会場入りした人と同じテーブルに座って、その方がしゃかりきちゃんのパーカーを着ていたので話しかけたところ、その話を聞いたさらに前のテーブルに座っていた方たちもその界隈のオタクたち(というかフォロワーさん)で、一気に輪が広がった。ちなみに、その最初に話した方から石原夏織さんのライブブルーレイを頂き、ばっちり布教され、リリイベとライブにも足を運んだり、FCに入ったりする ことになった。自分の好きが他人によって広がるような経験は今までほとんどなかったので新鮮だった。それ以降も色んな方と会って話すのが楽しかったし、年末には忘年会にも参加し、新たなオタク活動ができた。  このイベントを振り返れば、 制作の裏話ではなく、業界の見えてる側面について深堀って考えるというのは面白かった。ラジオ業界が盛り上がっているというメディアの喧伝に対して、実際にど...

『90年代J-POP なぜあの名曲は「2位」だったのか』を読んで

  ラジオ構成作家、ラジオDJとして活躍するミラッキ氏による初の著書、『 90年代J-POP なぜあの名曲は「2位」だったのか』 を読んだ。タイトル通り、CDが最も売れた90年代J-POPを、ウィークリーチャート最高順位が2位に終わった意外な有名曲を軸に捉え直す本となっている。例を挙げれば、『もう恋なんてしない』や『ズルい女』、『Automatic』など。  私にはチャートというものを意識して曲を聴くような習慣が昔からなく、98年に生まれた私にとっては90年代の流行りなど全く関心の外であった。第1章は「ビーイングの時代」と題されているが、そんな事務所があることすら知らなかったくらいの知識のなさ。それにもかかわらず、取り上げられた曲は、タイトルやアーティストが一致こそせずとも、再生すれば一度は聴いたことがあるものがほとんどだった。それだけ後年にも残るような曲たちだったということだろう。  しかし本を読んでの感想としては、一言で"not for me"。もちろんこれは本それ自体を拒否してるわけではない。ただ、チャート(ランキング)を追うということが、90年代におけるメインストリームのJ-POPが、それらの文化的背景が、私の肌には全く合わないということが確認されたのだった。  まずチャートを追うということについて、(私が逆張りしがちと言ってしまえばそれまでなのだが、)風見鶏的な態度が苦手で、音楽の好みを売上の大小で決めているような気がしてしまい、拒否感がある。もちろん音楽に限った話ではなく、人気投票のランキングなども人の好みに優劣がつけられているようで苦手だし、そこで上位を得なければ、つまり他人も自分と同様に好きでないと安心できないようなアイデンティティの脆弱さも理解できない。それに売上という単語を出したように、ランキングには資本主義的な効率性と権威主義が背後にあって、その構造に加担することにも抵抗がある。文化的背景にもつながるが、本書で触れられるように、TV番組の企画で「チャートで何位以内に入らなければ〇〇」のようなものや投票企画が複数あったようで、現在のオーディション/サバイバル番組に引き継がれているものもある。好きなものが結果として流行になるのは受け入れられるが、そのプロセスに積極的に介入すること(つまりCDを積んだり、色々な人に投票を促したりす...

キャン丁目へと向けたSalut! (サリュ!)

  Salut! (サリュ!)  このフランス語の挨拶をご存知だろうか。  salutという語は、ラテン語の salus [健康]から派生し、 salvus [良好な、健康な、良好な状態]に由来し、「救済、挨拶・礼」を意味する。sauver [救う]、salver [挨拶する]、sauf [除いて]、la santé [健康]、sécurité [安全]などにも派生している。  これを"Salut!"と間投詞として、日常的な出会いや別れにおける挨拶として用いられているらしい。語源にもあるように相手の無事や健康を祝し、願う挨拶ではあるようだが、通常そのように意識されることはないそうだ。日本語の「やあ!」とか「じゃあまた!」とかのようなもので、親しい相手との出会いや別れの両方で使える軽い挨拶の言葉である。  フランス現代思想において、ジャック・デリダやジャン=リュック・ナンシーは、この"Salut!"という挨拶から聞き取られる意味に「(他者の)実存の確認、認証/感謝」、「(他者への)責任=応答可能性 [responsabilité]」を見ている(cf. ジャック・デリダ『触覚、―ジャン=リュック・ナンシーに触れる』、ジャン=リュック・ナンシー『アドラシオン―キリスト教的西洋の脱構築』)。  ここで私は、そんな"Salut!"を敷衍して、2024年2月29日(木)をもって非公開となってしまった『加隈亜衣・大西沙織のキャン丁目キャン番地』へ、この言葉を送りたい。  "Salut!"という挨拶。我々は言葉を投げかけることによって互いに挨拶する [ saluer ]。挨拶の言葉の他者への相互的な差し向けによって、我々は身体が互いに露呈=外‐措定 [ex-position]されていること、つまり実存する [ex-ister]ことへと導かれる。呼びかけられること、すなわち他なるものへと開かれていること、そしてそれに対して「応答する [répondre]」こと、またその用意があることとしての「責任=応答可能性 [responsabilité]」。  我々には他者に対して、同じキャン丁目住民に対して、化石から新参に対して、そして未だ住民ではない者に対して、開かれているようにする「責任」が、常に互いに挨拶がで...

続・「推し」に寄せて

 続・「推す」行為について  少し前に投稿した 「推し」に寄せて という記事で、いわゆる「推す」行為に私が葛藤していることを書いた。端的にその葛藤とは、「推す」行為において、その対象の輝きや魅力を感じ、自らの活力や何かの契機にする一方で、そうした現実の人間の人生やパーソナリティを消費すること、それに伴う暴力性やグロテスクさ、規範的要求、監視、その行為の無責任性という矛盾、そしてその表裏一体の構造に対するものである。  そこでは最終的に、「推す」ことは、生、身体、情動、そして権力(Power)に関わるということから、この行為の政治性を認識し、自らの身振りやそのあり方を探るべく進む方向性が見えた、というかなり小さな一歩で終わっていたのだが、この度進展、というよりも新たに考えるべきことが見つかったため、新しい記事を書いている。  それはBase Ball Bearの小出祐介氏と、アイドル・音楽ライターの南波一海氏による、ポッドキャストのAM的良心を司る番組「こんプロラジオ #6 ほんとにあった!ドリカムの歌みたいな話」にて、おたよりを採用されたことに端を発する。( 各種ポッドキャストサービスはこちらから )  送ったおたよりはまさに先述の葛藤のことである。「推す」行為の負の側面に自覚的でありながら応援し続けることの苦しさに対してどうあるべきなのか、ということをまさに「推される」対象でありうる人、またそうした人々と関わりの深い2人から聞いてみたかった。  詳しいトークは本編を聞いていただきたいが、「どうにか距離を取ることを心がけること」、「応援ではなく、エンタメを受け取ること」という回答をいただいた。  南波氏による「そもそも『応援する』ということ自体、ちょっと距離感がバグっている」という指摘は耳が痛かった。というのも、今年の目標の一つに「推しとの距離を測る」ということを掲げていたからだ。実際、適切な距離というものは全く見つかってはいない。 来年はどうしようかな 当面は声優を応援して、そろそろ三次元の推しという概念とちゃんと向き合って適切な距離を測りたい — Babelfish (@HAL9777) December 31, 2022  南波氏の指摘を詳細に見よう。演者は観客に対してパフォーマンスをしている、発信しているのに対し、「推す」ないし「応援」においては観客側がそ...

「推し」に寄せて

1. 私の「推し」(?)  ここ1~2年、「推し」という概念について葛藤を抱えてきた。私自身この概念を上手く咀嚼できていないが、ここで「推し」とは、3次元の生身の人間かつ対等な関係を築きえない(基本的に双方的なコミュニケーションをとれない)相手に対して好意を抱いたり、応援をしたりすることを指すことにしよう。  端的にその葛藤は、「推し」を見ることでその人の輝きや魅力を感じ取り、自らの活力や何かの契機に変換したりする一方で、そうした現実の人間の人生やパーソナリティを消費すること、それに付き纏う暴力性やグロテスクさ、規範的要求、監視、推す行為の無責任性などといった矛盾、その表裏一体の構造にある。  私は2017年頃から声優の大西沙織さんをこっそりと応援してきたが、今思えばそうした負の側面を直視できないからこそ大きな声で好きだと言えなかったのかもしれない。またナナシスという2次元コンテンツに身を投じることでこの矛盾を避けていた。しかし、ナナシスはアイドルもので、規範的アイドルを壊すような作品だったし、当の大西さんもナナシスのライブに出演していたのだから、避けられるわけもなかったはずなのだが向き合うことができないでいた。  状況が変わったのは2022年末で、ナナシスのメインストーリーもそれをフィーチャーしたライブも終了しついにナナシスから離れたことで、いよいよ「推し」を直視し、自分なりに適切な距離を測る必要性とその心持ちができた。と言ってもそれはただ喪失感を埋め合わせるために声優をメインに応援し始めたにすぎないのかもしれないが。  ともあれ2023年は「推し」というもの、またその葛藤に向き合い自分なりの折り合いをつけようという思いがあった。そのためにもこれまでは基本的に避けていた声優イベントにも積極的に参加しようとしていた。  しかし、生憎大西さんにも別の意味で大きな変化が起きてしまったようだった。3月4日(土)開催の『エロマンガ先生』のイベント、続く3月26日(日)の『Extreme Hearts』のイベント、4月2日(日)開催の『朗読劇 四月は君の嘘』と、彼女は体調不良により立て続けに欠席することとなった。ラジオも今年の3月以降ほとんど出演していない。そしておそらく様々な調整などを済まし、5月29日(月)に所属事務所から一部活動を制限する旨のお知らせが出された。同日に「...

2023/06/06 (Tue.) 備忘録

 いつの日か立ち直れる日は来るのだろうか。 今日2023年6月6日(火)、『加隈亜衣・大西沙織のキャン丁目キャン番地』の番組終了が発表された。 ★ラジオ『キャン丁目キャン番地』よりお知らせ★ いつも番組を応援頂きまして有難うございます キャスト・スタッフと今後の番組につきまして 協議を重ねて参りました結果 6月15日(木)の配信を持ちまして、 加隈亜衣、大西沙織のラジオ 『キャン丁目キャン番地』 の配信は最終回となります。 pic.twitter.com/oCZUHpCJI4 — 超!アニメディア (@cho_animedia) June 6, 2023  2015年2月19日の番組開始から8年と4ヶ月。 私がキャン丁目を聞き始めたのは2017年3月頃だったと思うが、それ以来生活とともにあり続けてきたし、何度過去回を聞いたかわからない。 パーソナリティ2人の相性の良さ、スタッフの安心感。 ラジオ冒頭では「帰宅」「ただいま」というお決まりのコメントが流れるが、まさにいつでも帰ってこれるホームのような場所だった。 そんな場所がなくなってしまうのは本当に悲しい。 2022年3月24日の配信(#369)では、新規有料会員を250人が集まらなければ番組継続ができないという旨が発表されたものの、5月19日(#377)には500人以上の会員数増加をもって安定した継続が可能となった。 同回では、大西さん自身が会員になるほど番組終了となってしまうのが悲しかったと述べている( https://www.nicovideo.jp/watch/so40487872 )。 それから1年と少しで今度は大西さんの活動の制限もあって番組は終了となる。 大西さんのことをどれだけ慮ってもその気持ちは計り知れない。 加隈さんはこれまでの回すべてに皆勤で、一人回も代打パーソナリティの方が来た回もキャン丁目を盛り上げてくれていた。 宣伝こそほとんどしてこなかったけれど。 思い出深いのは、2022年9月18日(日)に開催された番組継続決定記念イベント。 いつもの配信のようにわちゃわちゃ、うだうだ、文句も言いながら番組を振り返ったり、コーナーをやる2人からキャン丁目が大好きなんだなというのが伝わってきて、とても嬉しくなったのをよく覚えている。 キャン丁目の好きなところは、変化と不変が入り混じって...

音楽朗読劇『四月は君の嘘』感想

 1. はじめに  2023/04/02㈰、音楽朗読劇『四月は君の嘘』(以下、君嘘)を観劇したのでその感想を。ただ、ツイッターのフォロワーや検索で見つかるような感想は大好評という感じだったのだが、私はそうではなかったので、好意的な人の目に留まらないようにこちらに綴る。なので、ネガティブな感想を見たくない人はブラウザバックしてください。  前提として、今回は君嘘が見たくて観劇したのではなく、出演予定だった大西沙織さんの朗読劇を目的にチケットを取った。タイトルこそ知っていたものの、ちゃんと見たことがなかったので原作は全て読んでから臨んだ(アニメは見ていない)。恋愛漫画が好みではないので読んでいなかったのだが、思ったより人間の成長の側面の方がメインに描かれていたので楽しめた。 2. 背景  ここで大西さんにとって今回の朗読劇がどのような意味を持っていたのかを示しておこう。彼女はアニメ君嘘でヒロインの宮園かをり役を受けていたことを、実際にそれを勝ち取った種田梨沙さんのラジオ番組「Salon de Tanedaへようこそ♪」(2022/04/25 第23回)で明かしている。その際吐露した悔しさは、オーディションから数年経っても残っているように見えたし、未だに作品を見れずにいるとまで述べていた。つまり、今回の朗読劇は彼女にとっては雪辱を晴らすような舞台になるわけだ。とは言え、アニメと朗読劇は全く別物であるし、アニメ放送時(2014年秋)はデビュー間もない頃であったため、朗読劇だからこその、今だからこその演技が見れることが私の楽しみにしていた要素であった。  だが、残念ながら体調不良によって出演はキャンセルになってしまった。これで大西さんのイベント出演は一ヶ月に渡り3回連続でキャンセルになっているので大変心配。どうかご自愛ください。  公演は夜の部出演の古賀葵さんが代役となり行われた。彼女にとっては体力的にも合わせていない相手との演技など大変な役回りとなったことは想像に難くなく、引き受けてくれたことには感謝しているものの、作品ではなく大西さんを見に行っている身としては、やはりやるせなさが大きかった。 3. 感想  「音楽朗読劇」と題されていたことから、楽しみにしていたポイントとしては①どのような有馬公生・宮園かをりを演じるのか、②脚本・演出・音楽はどうするのか、という点で...