「推し」に寄せて
1. 私の「推し」(?)
ここ1~2年、「推し」という概念について葛藤を抱えてきた。私自身この概念を上手く咀嚼できていないが、ここで「推し」とは、3次元の生身の人間かつ対等な関係を築きえない(基本的に双方的なコミュニケーションをとれない)相手に対して好意を抱いたり、応援をしたりすることを指すことにしよう。
端的にその葛藤は、「推し」を見ることでその人の輝きや魅力を感じ取り、自らの活力や何かの契機に変換したりする一方で、そうした現実の人間の人生やパーソナリティを消費すること、それに付き纏う暴力性やグロテスクさ、規範的要求、監視、推す行為の無責任性などといった矛盾、その表裏一体の構造にある。
私は2017年頃から声優の大西沙織さんをこっそりと応援してきたが、今思えばそうした負の側面を直視できないからこそ大きな声で好きだと言えなかったのかもしれない。またナナシスという2次元コンテンツに身を投じることでこの矛盾を避けていた。しかし、ナナシスはアイドルもので、規範的アイドルを壊すような作品だったし、当の大西さんもナナシスのライブに出演していたのだから、避けられるわけもなかったはずなのだが向き合うことができないでいた。
状況が変わったのは2022年末で、ナナシスのメインストーリーもそれをフィーチャーしたライブも終了しついにナナシスから離れたことで、いよいよ「推し」を直視し、自分なりに適切な距離を測る必要性とその心持ちができた。と言ってもそれはただ喪失感を埋め合わせるために声優をメインに応援し始めたにすぎないのかもしれないが。
ともあれ2023年は「推し」というもの、またその葛藤に向き合い自分なりの折り合いをつけようという思いがあった。そのためにもこれまでは基本的に避けていた声優イベントにも積極的に参加しようとしていた。
しかし、生憎大西さんにも別の意味で大きな変化が起きてしまったようだった。3月4日(土)開催の『エロマンガ先生』のイベント、続く3月26日(日)の『Extreme Hearts』のイベント、4月2日(日)開催の『朗読劇 四月は君の嘘』と、彼女は体調不良により立て続けに欠席することとなった。ラジオも今年の3月以降ほとんど出演していない。そしておそらく様々な調整などを済まし、5月29日(月)に所属事務所から一部活動を制限する旨のお知らせが出された。同日に「たかにしや」の番組終了、6月6日(火)には「キャン丁目キャン番地」の番組終了が続けて発表された。
この2つの番組がなくなってしまうことは受け止めきれないほどのショックがある。たかにしやは同様に応援している髙橋ミナミさんとの番組であり、またキャン丁目は大西さんを応援し始めたきっかけでもある上、昨年には番組終了の危機を乗り越えていただけに余計に。
しかし、私情は措いて、憂慮してしまうことは彼女の体調不良がこれまで隠されていたのかもしれないということである。先述の君嘘朗読劇の出演キャンセルに際して取っていた自分の日記には、「直前に収録されたであろうラジオや動画は”いつも通り”に見えた」ことや「それは無理していたのではないか」という疑念も記していた。特に後者に関して、「彼女は普段からよく笑い元気な姿をメディアには見せる」ことや「ファンに心配させないような気遣いをする人」というような「イメージ」が、彼女に対してある種プレッシャーや規範の押し付けのようになっていたのではないか、気丈に振る舞わせてしまったのではないかという思いを抱かせた。
実際、たかにしやの番組終了のお知らせには、(この内容を載せるべきではないと思うが)「収録時に体調が優れないときは、合間に休憩を入れながら頑張っていただいておりました。」と記されていることから、彼女がまだ出演していた時にすでに体調不良があったということになる。
2. 「推す」行為
「推す」側はどこまでも消費者でしかありえない。しかし、時に無自覚に勘違いしてしまう時がある。つまり、ラジオなどで見せる素の(ように見える)一面を知り、表出された感情を知り、決して対等なコミュニケーションではないのに近しい存在だと勘違いすること、その人を知った気になってしまうこと。そして、このように勝手に憶測に憶測を重ねてしまうこと。
これはメディアがそうした疑似的な私的コミュニケーションを生み出す装置として働くという構造上の問題でもあり、時に「推される」側もそれを利用することもあるし、それが個人の魅力や輝きを見せることを可能にしているという側面もある。しかし、それがかれらに負担になりうる以上、やはり自覚的でいる必要もあると思う。
ここに存在する「推す」ことの矛盾。すなわち、他人のパーソナリティや物語を作り上げそれを消費しながら、それによってもたらされる負担に自覚的であること、ないしそうした不都合な事実から目を背けていること。その無責任性。
以前の君嘘朗読劇の観劇後のポストには、大西さんのこの舞台に至るまでのストーリーを悲劇的に記してしまっていたし、直近のキャン丁目終了の際の気持ちを吐露したポストでは、番組の好きなところを「変化と不変」と述べ彼女らの「成長物語」のような見方をしていることを綴ってしまっている。
もちろんメディアにおける表象が全て虚であるわけもないだろう。しかし、充足した形でその人を表象することはできない。それでも他者は表象から知覚し像を型作る。とりわけ「推す」行為においてはそうした表象以外からその人を理解する術をもたない。
こうした非対称的で一方向的でしかない二者関係において存在するコンフリクト、矛盾、葛藤。ここにはやはりある種の「暴力性」が現在する。SNSやラジオなど、役者がキャラクターではなく、本人が自らの生活や経験を語ることを通じて、「公」と「私」の境界が曖昧にされる。正確には、私的領域が公的領域によって侵食される。しかし、この「暴力性」それ自体の存在はたしかであるのに、「被暴力性」の事実は滅多に可視化されえない。
上で無責任性を挙げたが、そうした責任を負う主体・人格はファンダム側には明確には存在しえない(ただし、誹謗中傷などを除く)。そもそもファンダムが共通の倫理観を持つこともなければ、そうした暴力性に無自覚ですらありえる。しかしそれは無責任であっていいことにはならないはずだろう。推される主体は負担を強いられるのであるから。これも一対多という構造によるものだ。そして、だからこそ被暴力性は見えにくい。
さらに、この暴力性は、それをもたらす主体が多であり非人格的であるため、それ自体曖昧にされる。この暴力性による被害という因果関係は必ずしも具体的ではないし、責任の所在を明らかにし、責任を負わせたところで何も問題は解決されない。さらに厄介なことは、この暴力性が加害の意図なしにも発露しうることである。純粋な応援や好きという気持ちが、どこかで過剰になり暴力性が顕になりうる。
この不均衡な関係性における責任はどのように扱われるべきなのか。暴力という概念は身体と密接に結びつけられ、「心身」という言葉があるように、身体性を伴う他者との関係性において根源的に関わってくるのは情動性である。情動というのはある刺激に反応して生じるものであるため、性質上受動的である。したがって、他者の情動はもちろん自己のそれも明確にないし意志的に統御できるものではなく、これもまた曖昧なものである。
けれど、まさにこの身体と情動の関わり合い、自己と他者との関わり合いというのはまさに生そのものである。「推し」との関係性において特殊であるのは、それが基本的にメディアを通じて行わることである。イベントや握手会などでは生身の身体の関わりが生じるが、そこでの関係は、メディアを通じて構築された関係性の上にあるないしそれを補強するものであると考えられる。関係性のない人、つまり全く知らない人のイベントに参加することは極めて稀であろう。
メディアを通じた生。メディアによって規定される生。これは技術性による身体ないし主体の統制につながる。つまり、推される側の主体が何を見せようとしても、メディアによって曲げられうるし、推す側の主体もそれをどのように受け取るかは、情動以前にメディアに依存している。主体の能動性が薄れていく関係性。曖昧さが占める関係性。
まさにこうした考えはフーコーの「生権力」概念やそれに関連するアーレント、ネグリ、アガンベンらによる「生政治」概念に接続されるのだろうが、残念ながら私は具体的にどのような倫理が導出できるのかを語る知識を持ち合わせていない。また、こうした身体と情動の関係を考えるに当たって、フッサール、レヴィナス、メルロ・ポンティらによる現象学、幸福概念を検討するためにヒューム、ベンサム、ミル、ポパーらによる功利主義などの知識も必要になるだろう。さらに、権力への抵抗としてフーコーの「自己への配慮」「パレーシア」、ケアの哲学・倫理、ドゥルーズの「欲望の機械」「アジャンスマン」「管理社会」などなど…
結局私自身はと言われれば、この曖昧な関係性の中で、そのグレーゾーンの中で、それを受け入れつつ何ができるかを実践的に探っていきたい。「推す」ことは、生、身体、情動、そして権力(Power)に関わる。したがって、明らかなことは、それは極めて政治的な行為であるということである。「推す」行為から享受できる良い面も、それがもたらす悪い面も括弧にいれなければならない。肯定も否定も宙吊り状態にした上で、言論と行為を通じて最善の状態(そうした真理やイデアが存在するのかはわからない)に漸近していく、それを試みること。どのみち、これまでと変わらず大きな声で「推し」とは呼ばないだろうし、それに付随する「推し活」に相当するものもひっそりと続けるだけにはなりそうではあるのだけれども。
言ってしまえば、何に葛藤していて、何が分からなかったのか、ということが分かったにすぎない(ここまで何か結論を期待して読んでくれた方には申し訳ないが)。しかし、私にとってはシリアスな事柄であって、この先の進む道が現れたように感じている。そういう意味においてのみ、こうしたネガティブなこともポジティブな契機となったとも言える。そしてこれはドゥルーズが述べた「その場に留まりながら外に出ること」「待ち伏せること」「脱領土化の運動」であり、そしてこの曖昧な関係性の中で「欲望」すること、「配置(アジャンスマン)」を構成・作動させることが必要なのである。
いずれにせよ、私はただただ彼女の幸福を祈ってやまないという点に変わりはない。そのためにこそ、彼女にかかる負担が少しでも軽くなることを願うばかりである。
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