続・「推し」に寄せて
続・「推す」行為について
少し前に投稿した「推し」に寄せてという記事で、いわゆる「推す」行為に私が葛藤していることを書いた。端的にその葛藤とは、「推す」行為において、その対象の輝きや魅力を感じ、自らの活力や何かの契機にする一方で、そうした現実の人間の人生やパーソナリティを消費すること、それに伴う暴力性やグロテスクさ、規範的要求、監視、その行為の無責任性という矛盾、そしてその表裏一体の構造に対するものである。
そこでは最終的に、「推す」ことは、生、身体、情動、そして権力(Power)に関わるということから、この行為の政治性を認識し、自らの身振りやそのあり方を探るべく進む方向性が見えた、というかなり小さな一歩で終わっていたのだが、この度進展、というよりも新たに考えるべきことが見つかったため、新しい記事を書いている。
それはBase Ball Bearの小出祐介氏と、アイドル・音楽ライターの南波一海氏による、ポッドキャストのAM的良心を司る番組「こんプロラジオ #6 ほんとにあった!ドリカムの歌みたいな話」にて、おたよりを採用されたことに端を発する。(各種ポッドキャストサービスはこちらから) 送ったおたよりはまさに先述の葛藤のことである。「推す」行為の負の側面に自覚的でありながら応援し続けることの苦しさに対してどうあるべきなのか、ということをまさに「推される」対象でありうる人、またそうした人々と関わりの深い2人から聞いてみたかった。
詳しいトークは本編を聞いていただきたいが、「どうにか距離を取ることを心がけること」、「応援ではなく、エンタメを受け取ること」という回答をいただいた。
南波氏による「そもそも『応援する』ということ自体、ちょっと距離感がバグっている」という指摘は耳が痛かった。というのも、今年の目標の一つに「推しとの距離を測る」ということを掲げていたからだ。実際、適切な距離というものは全く見つかってはいない。
来年はどうしようかな
— Babelfish (@HAL9777) December 31, 2022
当面は声優を応援して、そろそろ三次元の推しという概念とちゃんと向き合って適切な距離を測りたい
南波氏の指摘を詳細に見よう。演者は観客に対してパフォーマンスをしている、発信しているのに対し、「推す」ないし「応援」においては観客側がそれを受信するのではなく、かれらも発信する側に回っている。小出氏が補足するように、「発信に対して受信ではなく、応援」という行為は、観客が「演者側へかなり食い込んでいる」。「我々はエンタメを享受するだけ」であるのにもかかわらず。そして発信されているパフォーマンスは「誰に向かっているのか」。
これまでの私の「応援」を振り返れば、確かにそれはただ「享受」する以上のもの、「ここが良い」、「こんなものが見たい」、「ああなったらいいな」、さらには「こういうのは嫌」というものまでが混じっていたと言える。このように書くと、何故あんなにも葛藤していながら、「応援」という行為をもっと顧みなかったのか、と突っ込みたくなるほどには「食い込」み過ぎである。
さらに興味深かったことは、小出氏が自身のファンに対してのあり方、ライブのあり方として、「お客さんを突き放そうとする、全体から切り離して個にする」、「ライブで客を一体化させない」ということを意識していると述べたことである。
ここで連想されたのが、ジャン=リュック・ナンシーの『無為の共同体』である。ナンシーの共同体(communauté)という概念は、存在という事態が他者を前提にしており、我々は共同での存在であるという同一性を保持しつつ、同時に各々の特異性が分有される場を示している。それは決して我有化されえない場であり、また各々が合一・成就されることもない場である。ナンシーは、共同体の分有のコミュニケーションとしての、社会的、経済的、技術的、制度的な営み・作品(œuvrée)の解体としての「無為(désœuvrée)」、つまり何かを全体性へと導くもの、合一させるものを完了・成就させない抵抗としての営み、コミュニケーションとして「無為の共同体(La Communauté désœuvrée)」を提唱した。(この概念を端的に説明することが、今の私にはできない。)
要するに、小出氏は「無為」の行為としてライブを行っていると言えるのである。ライブ会場に来る観客の多くは互いを知らないが、一つの目的のために一つの場所に集まっている。しかし、小出氏はかれらが一体となること、合一することを阻止しようとする。他方で、それはかれらがバラバラな方向を向くように仕向けることでも、盛り上がらないようにするわけでもない。いわば個別性を連接させようとするのである。あくまでそれぞれの存在がそれぞれの存在として、しかし共同で存在する。ここでは、一見否定的、ニヒリズム的な完了しない「無為」という営みが、肯定的に共同体を要請するのである。
この「無為」が「推す」ないし「応援」という行為に対して示唆するのは、小出氏に倣って、自らを全体から切り離すこと、個の存在として、個の存在である対象と連接すること(一体・合一ではない)。そして、送信-受信の関係でありながら、それを完了させずにズレを生み続けること。完了から逸脱し続けること。その間に居続けること。こうすることによって、近すぎず遠すぎず、だが決して雁字搦めになることなく自由に動き続けることができる。
少し話を逸らして、「パフォーム(perform)」という語は、performenに由来し、古フランス語の"forme"[形]と連関して、"perfornir" [par- "完全に" + fornir "提供する"]という「実行する、仕上げる、達成する」を意味する単語に語源を持つ。演劇的、音楽的意味での「演じる、演奏する」という意味は17世紀頃から用いられ、またより広義に「作る、構築する、生み出す、実現する」といった意味があった。
つまり、「パフォーマンス」には何かを「実行」し、「構築」する意味合いが含まれていたのである。そうした演者側の行為、営みに対して、「無為」の営み、つまり「解体」をすること。送信と受信、構築と解体、という完了しない場を共‐出現させることが、演者と観客との適切な距離を生み出すと考えられるのではないだろうか。
逆に、送信と送信という関係を生む「推す」ないし「応援」においては、お互いが常に何かを構築し続けようとしている。それは、両者の合一、具体的には一義的な、全体主義的なファンダムを形成し、そこに演者も巻き込むことになってしまわないだろうか。
「応援」ではなく「無為」。これは私にとって重要な鍵概念になりそうな気がしている。ナンシーについてはまだ『無為の共同体』を読んでいる途中であるし、彼と関連の深いバタイユ、ブランショ、そしてアガンベンの思想が、さらに「無為」という新たな向き合い方を探るのに大きな助けになるかもしれない。
当面はただ「エンタメを享受する」ということに上手く移行していき、何かまた進展があれば追記したい。
最後に、こんプロラジオで取り上げ、示唆的な話をしてくださった小出さん、南波さんに感謝いたします。
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