『90年代J-POP なぜあの名曲は「2位」だったのか』を読んで

  ラジオ構成作家、ラジオDJとして活躍するミラッキ氏による初の著書、『90年代J-POP なぜあの名曲は「2位」だったのか』を読んだ。タイトル通り、CDが最も売れた90年代J-POPを、ウィークリーチャート最高順位が2位に終わった意外な有名曲を軸に捉え直す本となっている。例を挙げれば、『もう恋なんてしない』や『ズルい女』、『Automatic』など。

 私にはチャートというものを意識して曲を聴くような習慣が昔からなく、98年に生まれた私にとっては90年代の流行りなど全く関心の外であった。第1章は「ビーイングの時代」と題されているが、そんな事務所があることすら知らなかったくらいの知識のなさ。それにもかかわらず、取り上げられた曲は、タイトルやアーティストが一致こそせずとも、再生すれば一度は聴いたことがあるものがほとんどだった。それだけ後年にも残るような曲たちだったということだろう。

 しかし本を読んでの感想としては、一言で"not for me"。もちろんこれは本それ自体を拒否してるわけではない。ただ、チャート(ランキング)を追うということが、90年代におけるメインストリームのJ-POPが、それらの文化的背景が、私の肌には全く合わないということが確認されたのだった。

 まずチャートを追うということについて、(私が逆張りしがちと言ってしまえばそれまでなのだが、)風見鶏的な態度が苦手で、音楽の好みを売上の大小で決めているような気がしてしまい、拒否感がある。もちろん音楽に限った話ではなく、人気投票のランキングなども人の好みに優劣がつけられているようで苦手だし、そこで上位を得なければ、つまり他人も自分と同様に好きでないと安心できないようなアイデンティティの脆弱さも理解できない。それに売上という単語を出したように、ランキングには資本主義的な効率性が背後にあって、その構造に加担することにも抵抗がある。文化的背景にもつながるが、本書で触れられるように、TV番組の企画で「チャートで何位以内に入らなければ〇〇」のようなものや投票企画が複数あったようで、現在のオーディション/サバイバル番組に引き継がれているものもある。好きなものが結果として流行になるのは受け入れられるが、そのプロセスに積極的に介入すること(つまりCDを積んだり、色々な人に投票を促したりすること)は、結果の目的化であり、結局胴元の搾取する側に加担することになる。嫌なことばかり並べたが、つまるところランキングというものは本来結果でしかないのである。

 2点目に移って、本書で取り上げられるような90年代J-POPの中心の楽曲たちを聴いたが、私の好みに合わず最後まで聴けないものがあまりにも多かった。どれも同じ曲の構成で味気なく、小室哲哉のどれも同じ曲感はすごい。サウンドも軽すぎるものが多い1。これは初めてちゃんと聴いて気がついたことだったが、音数が少ないわけでも、歪みがないわけでもない。しかし同年代のもう一つのムーブメントとしての渋谷系のほうが少ない音数、クリーンなサウンドでありながら、むしろ音に厚みを感じられる。加えて、空間系のエフェクトがあまりにも安易に使われており一辺倒(これはJ-POPに限った話ではないが)。名プロデューサーが幅を利かせていた印象の強い90年代だけに意外だった。私が90年代の音楽で聴くものといえば、今挙げた渋谷系に属するフリッパーズ・ギターやCornelius、ピチカート・ファイヴ、カヒミ・カリィ。ロックでは、THEE MICHELLE GUN ELEPHANT、BLANKEY JET CITY、the pillows、TRICERATOPS。Wikiをちらっと見た感じでは、どれもチャートに入ってはいてもトップというわけではなかった。ふとthe pillowsの『ストレンジカメレオン』の歌詞が浮かんだ。

君といるのが好きで あとはほとんど嫌いで

まわりの色に馴染まない 出来損ないのカメレオン

優しい歌を唄いたい 拍手は一人分でいいのさ

それは君の事だよ

    3点目に、90年代の文化的背景について。本書によれば、90年代のヒットチャートの多くが今以上にTVドラマやCMのタイアップであるようだ。タイアップ曲が流行るのは今も変わらないかもしれないけれど。しかし、ビーイング系も小室プロデュースもタイアップに加え、通信カラオケブームをかけ合わせた戦略でヒットを狙っていた。このようなタイアップありきの曲は、必然的に短い時間で心を掴もうとする。しかし、そんな短時間で惹かれた経験もなければ、私の思春期(10年代)には、友達とカラオケに行きはするがブームというほどの勢いもなく、カラオケで歌いたい曲というものもなかった。そのため、このような戦略に合わせた曲も刺さらなかったし、むしろTSUTAYAのアルバム5枚レンタル1,000円をひたすら繰り返し、知らないアーティストを開拓することのほうに勤しんでいた。
 また、バラエティ番組から生まれたユニットや番組企画による曲などもチャートインしているが、ミラッキ氏も「『どうだ、テレビの影響力はすごいだろう』(中略)という制作者側の顔が透けて見えた」(pp.221-222)と述べるように、かなり奢りのある時代だったらしい。これは想像するだけで嫌な雰囲気を感じる。しかし現在もオーディション・サバイバル番組が流行っているのを見るに、何か繋がりがあるのだろう。これは最近刊行された太田省一, 塚田修一 , 辻泉編著『アイドル・オーディション研究: オーディションを知れば日本社会がわかる』が詳しそうなので参照したい。

 ここで、私の好きな音楽に立ち返れば、90年代邦楽で言えば、先ほども出した渋谷系やミッシェルなどのロックであり、オールタイムベストはThe Rolling Stones, Led Zeppelin, Pink Floydになる。そして元をたどって彼らに多大な影響を与えた黒人ブルース、ジャズを好む。これらに共通しているのは「抵抗」、「対抗」である。90年代J-POPに対する渋谷系やロック、The Beatlesに対するThe Rolling Stones、メディアに対するLed Zeppelin(彼らのインタビューやライブ映像はごくわずか)、シングル中心主義に対するPink Floyd(アルバム志向のプログレッシブ・ロック)、そして白人(による奴隷制度)に対するブラックミュージック。

 いずれもチャートを目的としておらず、時流の中心に対する抵抗がある。もちろんそんなことをわざわざ意識して聴いているわけもないので本書を通して初めて気づいたことだったが、(音楽的ルーツとして繋がっているとはいえ、)そうした抵抗的精神が音楽の中に息づいており、それに共鳴している。したがって、本書で取り上げられたような90年代J-POPへの"not for me"という感想は必然的であったのかもしれない。

 最後に、少しだけ本書全体の評価を加えれば、この感想から見てわかるようにワクワクこそできなかったけれど、各楽曲が2位に甘んじた背景だけでなく、周辺の文化的側面にもタッチしていてわかりやすく、読みやすかった。当時のミラッキ氏が垣間見えるところも個人的に面白かった。特に「#17 NOKKO 人魚(94年3月9日発売)実は90年代の”ど真ん中”な最高2位」は、筒美京平作曲、ブレイク前の安室奈美恵も出演のドラマのタイアップ、小室プロデュースとの対峙もあり、レベッカ(NOKKOがボーカル)をコピーしていたYUKIがボーカルを務めるJUDY AND MARYのブレイク時期と重なり合う、「90年代における『音楽交差点』の中央」(p.89)という評価には新鮮な驚きがあった。

 一方で、まとめてしまえばカラオケとタイアップ、それとTV番組というのがトップチャートのすべてのように感じられ、そんな単純だったのかという疑問が残る。宇野常寛氏との対談では、「90年代にはシーンというものが存在していた」、「90年代に固有の文法がある」という話が出ていたが、正直そこまでの概念的なものは掴みきれなかった(それが本書の主題ではないことは理解しつつも)。各項目は時々繋がりはするが、基本的には独立していて、90年代J-POP全体を通して何が通底していたのかということをもう一歩踏み込んで知りたい。

 しかし総じて、優れたリサーチ力・知識量と時折混じるエッセイ的要素が、ページを読む手を進めてくれる興味深い本であった。氏の側に90年代J-POPがあったように、私もこの本を通して、どんな音楽が私に寄り添ってくれているかを再確認することができた。次はどんな角度からラジオやイベント、そして本(!)を作ってくれるのか、期待したい。

  1. 「サウンドの厚み」で言いたいのは、90年代ではないが、例えば元ちとせの『ワダツミの木』のようなサウンドのこと。

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