「キミがいるから輝ける」――『キミとアイドルプリキュア♪』における光と闇の脱構築
わたしたちをとりこにした美しさ、そしてわたしたちが互いを一瞥しあうなかで、わたしたちの身体にある美しさが―老いも若きも、太っているものも痩せているものも、筋肉質のものも弛んでいるものも―まばゆく輝いた。
アルフォンソ・リンギス『暴力と輝き』、水野友美子・金子遊・小林耕二訳、水声社、2019年、p.248
はじめに
キラッキランランな輝きを放っていたアイドルプリキュア。一年追いかけた彼女たちの活躍が見られなくなって寂しさの募る毎日だ。プリルンが咲良うたを見出したことから始まった物語。それは仲間を増やし、ファンを増やし、そして敵さえも味方にしていった。私にとって初めてのプリキュア作品であるところの『キミとアイドルプリキュア♪』(以下、キミプリ)は私に多くのことを教えてくれた。ここではその一つであるところの「輝き」の話をしたい。
先述の通り、これまでのプリキュア作品はほとんど知らない(まほプリ、ひろプリ、わんぷりを観始めたところ)し、いわゆるニチアサのヒーロー系の作品も通ってきていないと、断りを入れておく。その上でだが、ヒーロー(スーパーヒロイン)ものの定番といえば勧善懲悪のイメージが一般的といっても異論はないであろう。主人公らは正義の味方として描かれ、敵対する悪やその組織と戦うというのが大まかな構図だ。
キミプリも表面上の構図は同様で、チョッキリ団のボス・ダークイーネがキラキランドを襲い、真っ暗闇にしてしまう。そして人間界にもその手を広げようとするチョッキリ団に対抗するため、救世主として見出されるのが光で闇を照らすアイドルプリキュアである。
私はここで「表面上」と述べた。それはキミプリが単なる勧善懲悪にとどまらないからである。この作品は、本当に「光で闇を照らす」「救世主」のお話だったのだろうか。主人公・咲良うたの口癖であり、この作品の最重要モチーフであるところの「キラッキランラン」とは何を表象していたのだろうか。本稿では、キミプリにおいて描かれる光と闇の関係を手がかりに、この作品がただの「光が闇に勝つ物語」ではない可能性、そしてアイドルプリキュアの放つ「輝き」とその射程について考える。
光と闇の構図
光と闇の対立
キミプリにおける対立構造はいたってシンプルだ。プリルンら妖精たちの暮らすキラキランドと、ダークイーネの生まれたクラクランド。キラキランドは、はなみちタウンにあるハートの木とつながっており、そこを介して人間のキラキラが送られ、「キラキラいっぱいの平和な場所」だったという。一方、物語終盤で明かされたように、キラキランドと対をなすクラクランドおよびダークイーネは人間の抱く闇から生まれ、その闇を受け続け苦しみながらも力にしてきた。
「妾は人間どもが抱く闇から生まれ、一時も絶えず闇をこの身に受け続けてきた。力にはなれど、その呻きは騒がしく、妾を苛んだ。人間は夢、憧れ、幸せ、あらゆる光を求めるが故、あがき苦しむ。なんと愚かなのだ。」
『キミとアイドルプリキュア』第49話「キミと一緒にキラッキランラン♪」より
キラキランドにおける平和とは、キラキラがいっぱいの光あふれる場所のことであった。ピカリーネが言うには、「キラキランドの者はみな、光に溢れ、闇を知」(第30話)らない。しかし、敵組織・チョッキリ団の幹部であるカッティーとザックリーももとはキラキランドの妖精(それぞれカッティンとザックリン)であったことが物語中盤で明らかになった。第27話において、彼らがなぜチョッキリ団にいたのか問われた際には、「自分たちの中の真っ暗闇をダークイーネに膨らまされ」、「キラキラが嫌いになった」と述べている。
光に内在する闇
では、そもそもなぜ闇を知らないキラキランドで、カッティンやザックリンのような闇を抱えた妖精が生まれていたのか。同じく闇を知る者としてはメロロンがいる。しかしメロロンは、ピカリーネによれば、「世界に闇の兆し現れし時、闇を知る者が伝説のハートキラリロックとともに生まれる」(第30話)という言い伝えの通りに誕生しており、他の妖精たちが「ビッグキラキラリボンのキラキラをたくさん浴びたキラキラの木から生まれてくる」(第14話)のとは異なっている。そのためカッティンやザックリンのような存在は、メロロンとも違った意味でマイノリティなのである。むしろ、キラキラしかない世界で闇を抱えてしまった彼らのキラキランドでの居場所のなさや抑圧は、相当なものだったのではないだろうか。メロロンが「メロロンはキラキラできないのに、どうしてキラキランドに生まれたのかずっと悩んでたメロ」(第44話)と吐露していたように。ダークイーネもそこに漬け込んだわけである。
そのはずなのになぜ闇が生まれたのか。それは、闇という存在は常にすでに光に、キラキランドに内在していたからである。キラキランドのビッグキラキラリボンは、はなみちタウンのハートの木を通してキラキラを取り込んでいるが、そのキラキラに闇も紛れているのである。光と闇という二項対立は、とりわけキラキランドにおいては階層秩序的なものである。すなわち、光に対して闇が従属している関係。「光に溢れ、闇を知」らないというのは、ビッグキラキラリボンに象徴されるように、光の現前であり、闇の排除を意味する。
差延
しかし、階層秩序的な二項対立には矛盾が内在している。つまりどちらか一方のみを現前させることは不可能なのであり、二項対立のその境界線自体、究極的には決定不可能であり、可変的、流動的、不安定なものなのである。充実した光があり、そこに現前の欠いた闇が外部へと排除されたり、二次的に闇が出現するのではなく、闇の要素は光の内部で常にすでに働いている。なぜなら光は、光でないもの(=闇)との差異が生じることによって初めて認識されることが可能となるからである。
しかしこの差異の認識それ自体も今に先立ってあった光という概念の痕跡によって可能となっている(すなわち、何が光なのか知らなければ光であると識別することはできないということ)。つまり、この空間的・時間的差異の運動によってキラキランドの住人の存在はあると言える。この時空間的差異の運動を、フランスの哲学者・ジャック・デリダは差延(différance)と呼んでいる。したがって、キラキランドではこの階層秩序的な二項対立に基づいている一方で、実際は闇も同時に存在していたのである。そこに起源を求めたところで無限にそれは送り返される。光があるときから闇もあったのだ。1
光と闇の共存可能性
ダークイーネによる革命
人間の闇から生まれたダークイーネもまた、キラキランドの住人と同じように、自身を光の二次的なものとしか認識していなかった。それは常に彼女を抑圧し、苛むものでしかなかった。そして、集まり増幅した人間の闇は力となり、キラキランドを襲う。ダークイーネの目的は、光のない「静寂に包まれた「スン」とした世界」(第49話)にすることであり、いわば暴力的な革命による価値の転倒である。一度はその革命は成功し、キラキランドは真っ暗闇となった。
しかし、アイドルプリキュアの尽力によりキラルンリボンがすべて集まり、ビッグキラキラリボン、キラキランドを復活させられる。すると、ダークイーネはクラクランドとともに現れ、再びビッグキラキラリボンを切断しようとする。今度は、ピカリーネはキラキランドをTSUBOMI(公式HP原文ママ)に変えることで攻撃を防ぐ。2見た目には殻に籠もる状態であり、外部への開かれを閉じる。つまりキラキランドは闇を拒絶する。
その一方で、アイドルプリキュアたちは、「光を求める限り、闇はなくならぬ」(第49話)と言い放つダークイーネに対して、闇に対してどのように立ち向かったのか。
キュアアイドル「わかってる。闇はなくならない。」
キュアウインク「怖くなることも、不安になることも、誰にだってある!」
キュアキュンキュン「心キュンキュンできない時もあります!」
キュアズキューン「そう、闇はあって当たり前なんだよ!」
キュアキッス「光と闇は一緒にいられる!」
『キミとアイドルプリキュア♪』第49話「キミと一緒にキラッキランラン♪」より
彼女たちは光だけではなく、闇も共存できることを説く。闇に呻吟する彼女をライブの最前席に招待して。
ここで物語のはじめに言われていた「光で闇を照らす」「救世主」という言葉の意味が浮上してくる。たしかにこれまでも彼女たちは、チョッキリ団にキラキラを奪われたり、暗闇を増幅させられたりした人々を救ってきた。しかし、ただそれだけであれば、これは単なる勧善懲悪であり、「光が闇に打ち勝つ」物語でしかなかっただろう。実際物語中盤あたりまでは、とりわけ闇を知る者としてのメロロンのセリフにその傾向が見えていた。例えば、第25話でザックリンダーへと変化させられたザックリーをキラキラにした時の「闇が光に……すごいメロ……」というセリフには、闇が消えて光、キラキラになるというニュアンスが感じられる。これはまだ光と闇の二項対立に縛られているかのようだ。
しかし、ダークイーネとの対峙においてはこの対立構造に変化が生じている。闇と光は共にあると言うのだ。もはやそこに位階も対立もなく、両者は溶け合っている。「光で闇を照らす」という言葉も、「光で闇をきれいにする」ということではなく、「闇の存在に光を当て、闇を受け入れる」ということを意味するのだとわかる。
アマスの絶望
振り返れば、これはキミプリの映画でのアマスと向き合ったシーンにも見出だせる。アマスとテラが珊瑚の精と人間の間に流れる時間感覚の違いにうなだれるのに対して、アイドルプリキュアはこう応える。
キュアアイドル「確かに短い時間かもしれないけど、それは絶対にムダなんかじゃない!」
キュアキュンキュン「アイドルがアイドルでいられるのはほんの一瞬なのかもしれません。でもだからこそアイドルは儚くて心キュンキュンなんだと思います!」
キュアウインク「そのわずかな時間のすべてを使って、応援してくれるキミから力をもらい、ステージに立って全力で歌って踊ってファンサして…」
キュアアイドル「もらった元気をもっと元気にしてキミに返して、それが大きな大好きなキズナになるの!たとえ時が流れても私たちがいなくなっても、キミが覚えてくれているかぎり、私たちは一緒にいるよ!たとえ私の命が燃え尽きても、キミが私を覚えていて、キラッキランランでいてくれるかぎり、私たちも永遠にキラッキランランだよ!」
『映画 キミとアイドルプリキュア♪ お待たせ!キミに届けるキラッキライブ!』より
命の終わりさえ仄めかすこのシークエンスでは、まさにアマスが闇に飲まれることの原因となったショーワのアイドル・Utakoの死が重ねられている。3それは映像的にもアマスの瞬きの間にUtakoの姿が現れることからも明らかだ。4しかし、彼女たちはアイドルの、人間の、定められた死という闇を否定的に捉えることはしない。むしろ、「そのわずかな時間」から「大きな大好きなキズナ」へと捉え返す。これは決して闇を消したり排除したりするわけではなく、受け入れた上で「キミ」を「キラッキランラン」にしようとしているのである。
光と闇の脱構築
光と闇における差延(différance)の運動によってこの二項対立の構造、中心性が内側から崩され、またその反復可能性によって常に両者は存在している。これを露出させ続ける運動のことを、ジャック・デリダの言葉で「脱構築(déconstruction)」と呼ぶ。つまり、アイドルプリキュアは光と闇を転覆させながらも、その転覆が新たな閉じた体制に舞い戻らないように、新たな転覆主体の体制をも再転覆すること、たえず転覆するシステムを維持し続けるよう循環的に脱構築し、何度でもキラッキランランな輝きへと向かうのだ。
この構造の変化がどこで明確になったかは正直はっきりしない。だが、映画での互いの親密度から言っても、メロロン/キュアキッスの問題が解決し、正式に5人でアイドルプリキュアになってからというのは決定的と言えるだろう。
では、なぜアイドルプリキュアにはこのような光と闇を共存させるアプローチが可能だったのか。その理由は、彼女たちに重ねられてきたメシア性にあると考える。
メシアニズム
キラキランドの言い伝え
ここでキラキランドに伝わる言い伝えについて見てみよう。
「キラキランドが真っ暗闇に包まれし時、アイドルハートブローチを手にした救世主・アイドルプリキュアが光で闇を照らす」
『キミとアイドルプリキュア♪』第2話「私、バズっちゃってる!?」より
これはまだ光と闇が対立していた頃のことだ。それにキラキランドは闇を受け入れていない。つまり、この「光で闇を照らす」ということが意味するのは、不安や恐怖といった闇をなくし、キラキラの光で満たすということであろう。これは世界の終末に際し現れる救世主たるメシアであり、一種のメシアニズムである。また、光によってその他者たる闇を光へと解消することは、強い言葉を使えば、全体主義的暴力である。
メシアニズムという終末論は、メシアの再臨によってこの世的なあらゆる苦痛から救済される日を待ち望む。(ユダヤ-)キリスト教的な歴史観に基づくこの思想は、世の救済という目的を想定するため、終末を歴史の目的(=テロス([ギリシア語で目的=終焉を意味する語])とする。プラトン以来の形而上学には「存在-神-目的論(onto-théo-téléologie)」という構造が現前しており、このような現前を基盤として階級構造をなし、頂点には究極の目的(テロス)である神的存在へいたろうとする。キラキランドの言い伝えもまた、存在-神-目的論的構造にある。そこには元のキラキランドに戻す、すなわち「キラキラいっぱいの平和な場所」、キラキラしかない場所の復興という全体主義的目的があるということ。そして、言い伝え上は、それを達成する神的存在がメシアたるアイドルプリキュアというわけである。それは一般的な勧善懲悪のヒーロー像とも重なり合っている。
アイドルプリキュアの実態
しかし、実際のアイドルプリキュアたちの活躍はそのような目的論的なものにも全体主義的なものにも基づいていない。先に見たように、彼女たちは「光で闇を照らす」ことで両者の共存可能性を説いていたのだった。それは、キラキラな世界を目的とせず、良き未来だけでなく、(望みこそしないにしても)悪しき未来にも開かれている態度である。
例えば、第39話の「まわれ!寸田先輩!」においてダンスの大会に出場した寸田先輩は優勝できずに終わる。その悔しさと謝罪を口にする彼に対して、時雨こころはこう述べる。
「違います!私は寸田先輩のダンスを見て、寸田先輩がどれだけダンスが好きなのか、どれだけダンスが楽しいのかが伝わってきたから、心キュンキュンしたんです!」
『キミとアイドルプリキュア』第39話「まわれ!寸田先輩!」より
優勝という象徴的なキラキラした世界ではなく、その人の内にあるキラッキランランな輝きの側面を見ている。それは必ずしもキラキラした光だけでなく、時に敗北や挫折、嫉妬といった闇の感情をももたらしうる。それでも人はそれを受け入れて前に進むことができ、そして他者の応援や存在がそのための一助となりうると謳うのだ。
メシア的なもの
デリダは、先のような存在-神-目的論的メシアニズムに対置して、「メシア的なもの」を提起している。メシア的なものとは、到来するメシアの内容(目的)を欠いた、他者の到来の形式である。この他者の到来は、「絶対的で予見不可能な特異性の経験」である。キミプリに則して言えば、さしあたりこの到来する他者とはアイドルプリキュアのことと考えられそうだ。他方でデリダは、到来する他者が同定され、規定され、現前する存在者となることは決してないと述べている。
それでもなお、アイドルプリキュア(ないしアイドル)という存在を概念的に「メシア的なもの」として捉えることで、キミプリに通底する「輝き」のテーゼが顕になるのではないだろうか。
「輝き」のテーゼ
光と闇への対峙
「メシア的なもの」とは、絶対的で予見不可能な特異性としての他者の到来の形式のことであった。この絶対的特異性ないし絶対的他者とは、いかなる存在であろうか。それは決して同じもの=自同者へと回収されえない存在、「まったき他者(tout-autre)」である。そして、それはその特異性において、光にも闇にも同一化されえず、両者からも独立して存在している。
光と闇の複雑に絡み合った関係の終末たるダークイーネの革命に対して、到来する絶対的他者。内容(目的)を欠いた予見不可能な特異性の経験としてのアイドルプリキュア。それは一体いかなる意味を持つのか。
そもそも、このような「メシア的なもの」の到来はそれ自体何を意味するのであろうか。それは、上述したようなあらゆる未来への開かれである。それは、理念や地平に沿った規則的進行(光の全体主義的暴力、闇の革命)を中断させにやって来る他者なのである。
デリダは次のようにも述べている。
もしも光が暴力の
ジャック・デリダ「暴力と形而上学」、『エクリチュールと差異<改訳版>』、谷口博史訳、法政大学出版、2022年、p.246境位 でもあるのなら、光と闘うためには、何らかの別の光を用いることが必要であって、それにより最悪の暴力、つまり言説に先立つ、あるいは言説を抑圧する沈黙と夜の暴力を回避せねばならないのだ。
ここでは、光が闇を取り込もうとする暴力に抗する、「何らかの別の光」の脱構築的暴力が必要とされている。なぜなら、そこで「沈黙と夜の暴力」の危険を受け入れてしまい、闇のなすがままにしてしまえば、一切のコミュニケーションを拒否した、ダークイーネの求める「スンとした世界」が訪れてしまうからである。「メシア的なもの」としてのアイドルプリキュアは、この脱構築的暴力をもって光にも闇にも対峙するのだ。
ここまでなぜアイドルプリキュアが「メシア的なもの」であると言えるのかを留保してきたが、それはこの脱構築的暴力にある。光と闇を脱構築する彼女たちの力は、光の支配にも、闇の支配にも抵抗する。そして、それはあらゆる未来(l'avenir)への開かれを形成するのであり、それは来たるべきもの(à-venir)である。
We're IDOL
さらに、また別の側面からもこの理由を見ることができる。それは、キュアアイドルの『笑顔のユニゾン♪』である。
キミのハートにとびっきり笑顔のユニゾン♪/キュアアイドル(CV:松岡美里)
元気をあげるね
ゼッタイ!(ゼッタイ!)アイドル!(アイドル!)
ドキドキがとまらない!
急接近 笑顔のユニゾン
応えてほしいなっ サンキュー
最高のステージで キミと歌を咲かそう作詞:こだまさおり 作曲・編曲:馬瀬みさき
彼女は「ゼッタイ アイドル」と歌う。その意味を「絶対的他者」としての存在と捉えるとどうか。咲良うた/キュアアイドルという個人ではなく、同定されたり、規定されたりするのではないような「まったき他者(tout-autre)」。たしかに5人でアイドルプリキュアであるが、他方で誰もがアイドル(プリキュア)でもある。
We're IDOL 誰もが輝くセンター ハート束ねてキミとルララ/キュアアイドル(CV:松岡美里)&キュアウインク(CV:髙橋ミナミ)&キュアキュンキュン(CV:高森奈津美)&キュアズキューン(CV:南條愛乃)&キュアキッス(CV:花井美春)
咲かせようDream 互いがスポットライト 照らし合う 照らし合う作詞:大森祥子 作曲・編曲:馬瀬みさき
そもそも、キミプリにおける「キミ」という存在もまた、誰かに特定されるようなものではなく、不定の二人称であった。この作品は常に他者へと向けられていたのである。常にキミ=他者へと向けられた矢印。それはあらゆる未来への開かれである。誰もがアイドルで、誰もがセンター。したがって、「メシア的なもの」としてのアイドルプリキュアとは、特定の誰かへと回収されえない特異性のうちにある、不定の人称性なのである。このような「「誰か」とは、既存のあらゆる決定を決定不可能なものへと連れ戻すものであり、それゆえに、同質化から逃れつづける「異質性」である「間隔化」の運動と、「誰か」という不定の人称が結びつくこととなる」5。すなわち、ここにおいて光と闇の脱構築を主導してきたアイドルプリキュアと、不定の絶対的他者たるメシア的なものとが接続される。
「キミがいるから輝ける」
ここから、キミプリが一貫して掲げたきたテーゼが顕になる。すなわち、「キミがいるから輝ける」というテーゼである。すでに述べたように、キミプリにおけるキミとは特定の誰かではない。しかしそれは他ならぬキミのことである。先に引用した『キミとルララ』の歌詞にもあるように、私たちは「互いがスポットライト」であり、「照らし合う」存在なのである。
『キミとルララ』はキミプリの後期エンディング主題歌であったが、ここでそのエンディング映像について見てみよう。
後期ED絵コンテ・演出担当の近藤まりが話すところによると6、プロデューサーの村瀬亜季はこの曲の歌詞を「孤独を抱えている人にも寄り添って、光を当てることを意識した」そうだ。このエンディング映像もまた、それにリンクさせている。サビ直前の「口ずさんで進もう」のカットでカメラが上下に回転し、ここを起点として後半は足元が水面のステージへと変わる。前半のシーンは水面の向こう側の世界であり、「孤独な虚構の世界」であったというわけである。後半は「光ある現実世界」へと変わり、温かな朝日に包まれる。このシークエンスを近藤は、オフィーリアの逆再生と述べている。
シェイクスピアの『ハムレット』におけるオフィーリアは歌を口ずさみながら花とともに川に溺れてしまうが、ここではその逆再生。つまり、「孤独な水面下から出てきて、花びらをまき散らしながら歌って踊って、「生」へと向かっていく」、生の肯定なのである。孤独とそれを照らす輝かしい生の朝日のこの対比は、上述の映画キミプリでの死を受け入れた上での生の肯定とも共鳴している。アマスは、彼女が愛慕の情を向けるUtakoの喪失を受け入れ、「思い出した!世界はとても美しい」と述べる。それはキミの存在があってこそであるということを理解したからである。
誰もが輝くセンター
「私」と「キミ」は常にお互いを照らし合っている。「キミがいるから輝ける」とは、もっぱら職業的なアイドルに限られた話では決してない。それはステージ上でキラキラして、それをファンがまたその姿にエールを送るという表象が象徴的であるだけにすぎず、あらゆる者がアイドルたり得る。それが不安や怖れなどといった闇の側面を受け入れながらも、生を肯定し、前を向くように背中を押すという形で脱構築的である限りにおいて。そして、「メシア的なもの」たるアイドルプリキュアは、不定の人称性と接続されることを見たように、私たちもそのような在り方を志向する限りにおいて、「誰もが輝くセンター」であり、アイドル(プリキュア)たることができるのではないだろうか。
その象徴として響カイトがいるのだ。彼はレジェンド・アイドルとしてトップを走ってはいるが、アイドルプリキュアではない他の一般人と同じである。しかし、第42話「コネクト!キミからのEcho」において、闇に呑まれてしまったかつての親友・カズマに対して心から「歌を届けたい」と望むとき、彼はキュアコネクトへと変身する。その想いは「大切なキミがキラキラを取り戻すきっかけを作る存在」(第49話)というアイドル像そのものであり、やはり闇を解消するのではなく、それを受け入れて進むための力を与える。そして、キュアキッスは「きっと親友を想う強い気持ちがあなたをプリキュアにしたんだと思う」と告げるように、誰しも「キミ」を想う気持ちがあればアイドルに、そしてプリキュアであることができるのである。
「輝き」の射程
他者・未来への開かれ
誰もがアイドルプリキュアでありうるという希望の、この輝きの放つ射程はどれほどのものだろうか。それが何をもたらしうるのだろうか。
アイドルプリキュアの未来や他者、そして光と闇への開かれとは、決して条件的なものではない。すなわち、しかじかの光/闇であれば良くて、また別のそれらは受け入れないようなものではないということである。アニメでも一貫して彼女たちはあらゆる他者に対してステージを届けてきた。人々の心に宿るキラキラな気持ちや暗い気持ちを狙って怪物化してきたチョッキリ団だが、その光と闇は様々であり、アイドルを好きな気持ちから、ポップコーンをひっくり返してしまって落ち込む気持ちまで。どんな気持ちも彼女たちは笑うことはないし、彼ら彼女らの些細な日常を、その感情を尊重し守ろうとする。
ここでも第42話「コネクト!キミからのEcho」はそれを体現している。カイトがカズマのことを想って歌い待ち続けてきたことを伝えると、カズマはそれを嘲笑う。それに対して、キュアアイドルは次のように怒りをぶつける。
「何も可笑しくなんかない。カイトさんのあったかくて大切な想いを、馬鹿にしないで!」
『キミとアイドルプリキュア♪』第42話「コネクト!キミからのEcho」より
どんな闇を前にしても、絶対的に他者へと開かれ、いつだって「キミ」のもとに輝きをもたらしている。
この輝きの希望が、メシア的なものとしての希望がこうして一糸まとわぬものとなるのは、「絶対的歓待(hospitalité absolue)」が、予見不可能な未来=来たるべきもの(à-venir)への「来なさい(viens)」という呼びかけが、そうであるべきものへと応えるためである。繰り返しになるが、この希望はあらゆる未来への、他者への開かれであり、それは良き未来へも悪しき未来へも、光にも闇にも開かれてある。それが顕になるのが「絶対的歓待」という呼びかけにおいてであるということだ*7。
絶対的歓待
これまで見てきた光と闇の関係において、この「絶対的歓待」とはいかなるものであろうか。主人たる光が、客人としてやって来る闇を迎え入れることだろうか。決してそうではない。それでは光が闇を包摂し、その闇の異質性を排除してしまうかのようだ。アイドルプリキュアによる「絶対的歓待」の呼びかけは、主人と客人が、光と闇が、どちらとも決定され得ない境界領域にとどまらせる。そこでは主人が、到来するあらゆる他者を客人として歓待するという役割を持ちながらも、その他者によって侵犯されるという脅威が、主人と客人の反転可能性が常に存在する。つまり、闇の到来によって光が侵され得るという可能性。このことは、カッティンやザックリン、アマス、カズマらが光を失い、闇に落ちたことにも現れている。
しかし、本稿第3章で見たように、あくまでアイドルプリキュアは「光と闇の共存可能性」を説き、両者を脱構築し、「キミ」を「キラッキランラン」にしてきた。それは決して力の正義、強者の論理ではなく、歌でもてなすこと、歓待することによって達成される。最後には闇の女王・ダークイーネさえもライブへと招待して。「歓待(hospitalité)、敵意(hostilité)、
第2章で「光に内在する闇」を確認したこととパラレルに、外から入る客人はすでに内におり、内部の主人は「あたかも外から来たかのようにして、中から入る」。内部の内部に外部があり、外部の外部に内部が放り出される。光と闇はどちらとも決定されえず、したがって他者への開かれを維持すると同時に、自己を守る態度との決定不可能性がここに存在している。しかしデリダは、このアポリアの場を「非受動的なかたちで堪え忍ぶ」ことによって、不可能性のただ中に「責任」の可能性を見出す。つまり、この不可能性から逃げないこと、光と闇の双方に能動的に働きかけることの責任。それが「絶対的歓待」である。
プリキュアという責任=応答可能性
ここでアイドルプリキュアであることの、より広くプリキュアであることの「責任(responsabilité)」が浮上してくる。そして、これこそがここまで見てきた「輝き」の持つ最大の射程である。
「歓待(hospitalité)」という語と同じ語源的なつながり(ラテン語hospes)を持つ単語には「病院(hospital)」もある。病院の起源は、中世の西欧諸国において、キリスト教の修道院で行われていた行為にあると言われ、そこには愛に基づいて行われる他者への慈善的・奉仕的な活動が根底にある。ここから、「歓待」と「治癒、キュア(cure)」というつながりが見えてくる。
「プリキュア(Precure)」とは、周知の通り、「Pretty Cure」に由来している。彼女たちはかわいい姿へと変身して、世界を、大切なものを守る、治癒する存在。そしてキミプリにおいて、この「キュア〇〇」と名乗る存在は、世界に対して能動的に「絶対的歓待」として呼びかける。「キミをキラッキランランにしたい」と。それはあらゆる他者への開かれであると同時に、一つの治癒なのである。
先に見たように、「絶対的歓待」とは、他者への開かれと自己を守る態度の決定不可能性に対して「非受動的なかたちで堪え忍」ぶことであった。そして、アイドルプリキュアは光へ、闇へ、世界へ、未来=来たるべきもの(à-venir)へと「応答する(répondre)」。この「
私は、第5章での「輝き」のテーゼから、不安や怖れなどといった闇を受け入れながらも、生を肯定し、前を向くように背中を押すという形で脱構築的である限りにおいて、私たちでさえも「誰もが輝くセンター」であり、アイドルプリキュアたることができるのではないかと唱えた。それはここで、この「責任=応答可能性(responsabilité)」という概念と接続される。私たちがアイドルプリキュアたることができるということは、同時に常に私たちにも他者に対する「責任=応答可能性(responsabilité)」が伴い求められるのである。
アイドルプリキュアは、そのステージにおいて、度々コール&レスポンスを求めてきた。しかし、ここまで見てきたことから、そこには単なるアイドル的なパフォーマンスにとどまらない意味が見出だせるのではないだろうか。すなわち、他者への呼びかけと応答。それはまさに「絶対的歓待」であり、その「責任=応答可能性(responsabilité)」であったのではないだろうか。そしてそれは、彼女たちだけの行為や態度ではなく、私たちをも巻き込んでいるのだ。2025年10月に開催された『キミとアイドルプリキュア♪LIVE2025 You&I=We're IDOL PRECURE』の「おつきさまと一緒に!YEAH♡公演」(夜公演)、アンコール後のMCでキュアアイドル役の松岡美里が、観客からの呼びかけを求め、それに応えるという「逆コール&レスポンス」をやったのもまた象徴的だ。観客であってもアイドル的存在として彼女たちにコールやエールを送ることができるのである。
双方向性のキラキラ
このような双方向性は、後半からクライマックスへかけてのキミプリにおける最重要モチーフのひとつである。アイドルプリキュアが5人で結束したことによって生まれた楽曲『キミとシンガリボン』に次のような歌詞がある。
双方向性に行き交うキラキラは毎日の(キラッキラン) 欠かせない素敵・無敵・エナジー(トゥインクルウインク)キミとシンガリボン/キュアアイドル(CV:松岡美里)&キュアウインク(CV:髙橋ミナミ)&キュアキュンキュン(CV:高森奈津美)&キュアズキューン(CV:南條愛乃)&キュアキッス(CV:花井美春)作詞:こだまさおり 作曲・編曲:馬瀬みさき
キラキラは互いに行き交う。それによってこそ「キラッキランラン」にすること、なることが可能であり、前を向いて生きるエナジーとすることができるのだ。プリキュアから勇気をもらい、その光をまた他者へと渡すということ。「責任=応答可能性(responsabilité)」の概念を通して、勇気のバトンはつながれていく。これこそ、「キミがいるから輝ける」という言葉の真の意味である。アイドルの「輝き」は、無限に反射し合い、増幅し、世界を照らすのだ。
おわりに
本稿では、キミプリという作品がただの「光が闇に勝つ物語」ではないということ、そしてアイドルプリキュアの放つ「輝き」とその射程について見てきた。
簡潔に振り返れば、光と闇は対立し合っているのではなく、互いに溶け合っているということを彼女たちは一貫して受け入れてきたのであり、その上で私たちが前を向いて生を肯定していくための「キラッキランラン」を届けるために、「歌って、踊って、ファンサして」きたのだということ。そのような世界は、決して何か一つの目的論的なものに向かったものではなく、またキラキラだけで構成されるようなものでもなく、あらゆる未来・他者へと向けて開かれているのだった。
そして、このような開かれた態度をもって、アイドルプリキュアが、特定の誰かへと規定されない「キミ」へと向けて「誰もが輝くセンター」と歌うこと、「互いがスポットライト」であると信じること。このことは、彼女たちだけでなく私たちでさえもアイドルないしアイドルプリキュアになる/であることができるということを意味するのだ。このような「輝き」はさらに、他者や未来への開かれの希望と、プリキュアとしての責任をもたらす。すなわち、互いに「照らし合う」ことによって、他者、未来、世界を治癒する(cure)こと、応答することの希望と責任。キミプリは決して、その作品内部にとどまらず、観客たる私たちに対しても開かれ、そして他者に対する責任を持つように巻き込んでいるのである。そして、それこそが「双方向性に行き交うキラキラ」の意味であり、彼女たちの放つ「輝き」の持つ射程の広さである。
一年を通して描かれたアイドルプリキュアの輝きは、私に多くのものを与えてくれた。それは決してキラキラした世界を称揚するだけではなく、しかしこの世界を肯定的に生きていくための「キラッキランラン」をもたらしてくれた。「互いがスポットライト」だと歌ってくれた彼女たちに対して、私はいかにして「輝き」を返せるだろうか。そのためには、私たちは彼女たちから受け取ったバトンをつないでいかなければならないのだ。そして私たちの間に結ばれたリボンが解かれてしまわないように。
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