キャン丁目へと向けたSalut! (サリュ!)

 Salut! (サリュ!)

 このフランス語の挨拶をご存知だろうか。

 salutという語は、ラテン語のsalus [健康]から派生し、salvus [良好な、健康な、良好な状態]に由来し、「救済、挨拶・礼」を意味する。sauver [救う]、salver [挨拶する]、sauf [除いて]、la santé [健康]、sécurité [安全]などにも派生している。

 これを"Salut!"と間投詞として、日常的な出会いや別れにおける挨拶として用いられているらしい。語源にもあるように相手の無事や健康を祝し、願う挨拶ではあるようだが、通常そのように意識されることはないそうだ。日本語の「やあ!」とか「じゃあまた!」とかのようなもので、親しい相手との出会いや別れの両方で使える軽い挨拶の言葉である。

 フランス現代思想において、ジャック・デリダやジャン=リュック・ナンシーは、この"Salut!"という挨拶から聞き取られる意味に「(他者の)実存の確認、認証/感謝」、「(他者への)責任=応答可能性 [responsabilité]」を見ている(cf. ジャック・デリダ『触覚、―ジャン=リュック・ナンシーに触れる』、ジャン=リュック・ナンシー『アドラシオン―キリスト教的西洋の脱構築』)。

 ここで私は、そんな"Salut!"を敷衍して、2024年2月29日(木)をもって非公開となってしまった『加隈亜衣・大西沙織のキャン丁目キャン番地』へ、この言葉を送りたい。

 "Salut!"という挨拶。我々は言葉を投げかけることによって互いに挨拶する [saluer]。挨拶の言葉の他者への相互的な差し向けによって、我々は身体が互いに露呈=外‐措定 [ex-position]されていること、つまり実存する [ex-ister]ことへと導かれる。呼びかけられること、すなわち他なるものへと開かれていること、そしてそれに対して「応答する [répondre]」こと、またその用意があることとしての「責任=応答可能性 [responsabilité]」。

 我々には他者に対して、同じキャン丁目住民に対して、化石から新参に対して、そして未だ住民ではない者に対して、開かれているようにする「責任」が、常に互いに挨拶ができる/迎え入れる [nous saluer]ようにする「責任」がある。

 その「責任」を果たすために、我々はキャン丁目キャン番地を相続し、語り継いでいかなければならない。それは過去のこれまでの放送から、現在の我々へと差し向けられた"Salut!"に対する応答であり、同時にそれを未来へと差し向ける必要がある。

 我々が互いに実存していることが言葉の差し向けによって確認されるということは、我々は関係することで実存しているということを意味する。そしてその関係においてキャン丁目キャン番地という「場所」をも相続、語り継ぐ必要があるのだ。我々住民、そして未だ住民でない者までに対して関係が開かれているためには、常にその場所が実存していなければならない。キャン丁目キャン番地という地図の「外に存する」場所。

 重要であるのは関係なのだ。関係は、それが互いに差し向けられる状態にある限りにおいて、死なない。たとえそれが地図上に存在しない場所であっても。関係、出会い、再会からなる、場所と存在。

 来たるべき時のために、将来それが実現するように待ち構える=期待するために、我々はこれからも過去からの呼びかけに対する応答と未来へと差し向ける呼びかけという「責任」を負う必要がある。そのための場所を残すことによって。

 奇しくもキャン丁目が聞けなくなってしまうのは、閏年というカレンダー上に4年に一度しか存在しない日となった。それはキャン丁目が地図に存在しないが実存していることと、なんだか似ている気がする。

 いつの日にか、また再会できるように、キャン丁目キャン番地、そして加隈亜衣さん、大西沙織さん、キャンポインターさん、おさむさん、吉野キャンはじめこれまでに関わったすべての人へと向けて、健康と無事を祈りつつ、この言葉をもってこのポストを締めよう。

 Salut!

コメント

このブログの人気の投稿

きっとまたあした。―6+7+8th Anniversary Live "Along the way"を終えて

続・「推し」に寄せて