2025年なんでもBEST

はじめに 

 2025年は旅の年だった。 決して物理的に遠出したわけではない。ただいろんなイベントに行き、美術展に行き、たくさんの映画の世界に浸った。そして本の虫らしく書物からそれらを解釈していた。常に私の先を行き、私から逃れ続ける言葉を追いかける日々。触れたと思えばまた逃れる言葉たち。そんな言葉を追う旅。

 ここではそんな2025年の極めて個人的ななんでもベストを考える。なんでもベストは、Base Ball Bear・小出祐介氏とライターの南波一海による「こんばんはプロジェクト」で毎年恒例の年間ベストテンを発表する企画(https://x.com/LOFT9Shibuya/status/2010938703146029096?s=20)。映画や本からYouTubeまでジャンルは不問。ただベストと言いつつランク付けは少しむずかしいので日付順で。それぞれを振り返りつつ、感想のような論考のようななにかを書き連ねる。

大村綾人のラジオ業界オモテ話(イベント)

 3月30日、代々木WOOFERにて。これは少し他のものとは趣が違って、もちろんイベント自体も楽しかったけれど、加えてここでは様々な出会いがあった。2025年はこれまでで一番たくさんイベントに行ったが、ここをきっかけに現地で色んな方と会うようになって、さらにそこから新しい知り合いができたりと、イベントでの新たな楽しさがまた加わった年にもなった。このイベントでは、たまたま同時に会場入りした人と同じテーブルに座って、その方がしゃかりきちゃんのパーカーを着ていたので話しかけたところ、その話を聞いたさらに前のテーブルに座っていた方たちもその界隈のオタクたち(というかフォロワーさん)で、一気に輪が広がった。ちなみに、その最初に話した方から石原夏織さんのライブブルーレイを頂き、ばっちり布教され、リリイベとライブにも足を運んだり、FCに入ったりすることになった。自分の好きが他人によって広がるような経験は今までほとんどなかったので新鮮だった。それ以降も色んな方と会って話すのが楽しかったし、年末には忘年会にも参加し、新たなオタク活動ができた。
 このイベントを振り返れば、制作の裏話ではなく、業界の見えてる側面について深堀って考えるというのは面白かった。ラジオ業界が盛り上がっているというメディアの喧伝に対して、実際にどうなのかといえば全然そんなことはないという話がメイン。それを踏まえて盛り上がっているコンテンツとは何かということを考えて、どれだけ文脈に乗っかれるかどうかということを述べたのだけどhttps://sizu.me/hal9777/posts/wimrv96x3vou、これって結局昨今流行りの考察文化だなと思う(文化なんかであってほしくないが)。一つのナラティブを作ったり、答えのあるレールの上に乗って踊ること。流行りのラジオというものが何なのかわからないけど、M-1の後の芸人ラジオで正解を見つけようとするとか、関係の深い誰と誰がコラボしたとか、そういうことなのではないのだろうか。考察の反対として批評があるとすれば、ラジオにおいてそれは何の文脈もなく生まれるコーナーとかメールとかになるのかもしれない。その意味で、しゃかりきちゃんというのは批評的態度をもったラジオと言えるだろうし、悲しいかな流行ることは難しそうとも思う。ただ私はこういうラジオのほうが好き。
 あまり考えがまとまっていないので、またこのイベントを開催してほしいところ。

アンゼルム・キーファー『ソラリス』(美術展)

 5月17日、京都・二条城にて。キーファーのアジア初の大規模個展。終戦の年の1945年に生まれたドイツを代表する芸術家で、ドイツの歴史、ナチス、戦争、神話、聖書、詩、哲学、科学などを横断的にテーマに据え、砂や藁、鉛などを支持体とした重厚かつ壮大な作品が特徴。2024年にヴィム・ヴェンダースによる『アンゼルム ”傷ついた世界”の芸術家』が上映されて以来、気になっていた芸術家の個展とあって、わざわざ京都まで出向いた。

 彼の作品群の多くがモチーフとするのは「死」と「再生」である。彼は自身の絵画について、「瓦礫であり、爆発の残骸にすぎない」と述べている。それは常に消滅(死)の瀬戸際にあり、衰退の途にある。これは、彼が作品の支持体(鉛や藁など)や技法(カンヴァスを焼く、電気分解など)にも現れている。他方で、それは現実への諦念ではない。この展示でも多用されていた金箔や、本のモチーフ、まっさらなパレットなどは、未来への再生への希望でもあり、この二項対立は常に作品に内在されている。この意味でも、彼は我々に記憶を喚起する。それは、かつてあったものの記憶であり、破壊という暴力の瞬間やその惨禍の記憶であり、そしてその暴力がなければあったであろう記憶でもある。我々は「残骸」を通してその無限の記憶に立ち会う。一つの作品という有限性の立ち現れの中で。

 今回の個展でもそれは大いに表現されていた。そして日本という唯一の被爆国としての、そして京都というかつての権力の中枢としての場所の記憶を喚起しながら。しかし、ただその記憶を思い起こさせることにとどまることはなく、それは作品を通して我々が記憶するところのものともなる。作品に表象される人物は過去の誰かであり、無人であり、同時に無数の誰かでもある。空洞で体も顔ももたない白いドレスを着たマネキンのようなオブジェ(《革命の女たち》シリーズ)。水や岩、流れる風のあるただれたような大地の中央から浮かび上がるように描かれた、まるで怒り、恐怖、苦悶に満ち叫び声を上げるかのような人の顔(《オクタビオ・パスのために》)。特定の一者として枠に当てはめることなどできない存在。つまり、その作品には過去から未来へと及ぶ予測不可能な記憶が込められ、それがいかにして残るのか、いかにして再生されるのか、そしてそれが混沌とした日常を打ち破りうるものなのかを問う。彼の芸術的営為はそうした無限なものを有限なものに刻み込むというアポリアとともにある。

 そんな彼の壮大で、荘厳で、畏怖に満ちた作品群を前にして、息を呑むことしかできなかった。展示点数自体は多くなかったけれど、時間を忘れて過ごしたことをよく覚えている。また、西洋とりわけドイツを中心に描いてきたキーファーの作品が、日本の二条城という伝統的な建築物の内部に置かれてどうなるのかと思っていたが、想像以上にマッチしていて、それは狩野派の障壁画に用いられている金箔が彼にもあるからという単純なこと以上に、その表象するところの不定の誰かがこの場所においても代入されうるということであり、その射程の広さを実感することとなった。映画で観た衝撃以上のものを体感することができて行った甲斐があった。

《オクタビオ・パスのために》, 2025

《プトレマイス》, 2002-10

岡﨑乾二郎『而今而後 ジコンジゴ Time Unfolding Here』(美術展)

 7月15日、東京都現代美術館にて。まず信じられない作品の物量に圧倒されたが、それら一つ一つの強度も尋常ではなく、美術展でこんなにも時間と体力が足りないと感じたことはなかった。タイトルの「而今而後」とは「いまから後、ずっと先も」を意味する。英語副題の"Time Unfolding Here"も直訳すれば「ここで開く時」であり、単純にこれまでの岡崎の作品群の時系列的な展開や、今ここから未来へ開かれている可能性なんかを意味しているのだろう。他方で、展示室は仕切りの多く張り巡らせられ、線的なつながりをもたない順路を辿るうちに、個々の作品からも時間を感じることができるのだった。それもリニアな時間ではなく、過去・現在・未来の入り混じったような時間の断片が同居しているような。

 しかしそれらの作品群、一個一個の展示室はつながりをもって現れる。ある作品たちはシークエンスを形成し、さらにそれは延長として別のシークエンスと共存在する。ライプニッツにおける「延長 extensio」とは、「部分の外にある部分 partes extra partes の共存在の秩序」、つまり各々の部分が他の部分に対して外在的であるような、バラバラの離散的な部分が同時に存在している秩序的現象である。ジャン=リュック・ナンシーもこの「部分の外にある部分 partes extra partes」を多用し、身体 corps の空間性を強調する。そして、こうした外部に、限界に、他なるものに曝け出される身体が「意味=感覚 sens」である。岡崎の作品群はこの意味で、意味=感覚それ自体をむき出しにする。彼は「可塑性」という概念を重んじるが、それはこの限界への露呈によって可能となっている。

 「可塑性 plasticity」に対して、「造形 plastic art」。岡崎はこれまで自身を「造形作家」と名乗ってきたらしい。そして彼は次のように述べる。

いわば美術で造形されるのは主体である。主体の可塑性を確保し、実験し続けることが芸術であった。

岡﨑乾二郎「芸術教育とは何か?―教育と芸術そして科学」『感覚のエデン』亜紀書房、2021年、p.222

  他方、ナンシーは物体(身体 corps)を「主体 sujet」として把握しようとする。

「身体」とは対象を持たないことの主体である、すなわち主体でないことの主体、「発熱の発作に罹りやすい (sujet à)」という言い方をするように、主体でなくなりやすい主体である。

ジャン=リュック・ナンシー『共同‐体』大西雅一郎訳、松籟社、1996年、p.69

 彼はここで物体を主体とみなしつつ、そうでなくなりやすさ、つまり無数の運動、流動性を示唆する。前者の「造形される主体」とはまさに「主体でないことの主体」であり、そしてその主体に、(一般的で固定的な視点としての主体ではなく、)「可動的な拡張 extension mobile」、「可塑性」をもたらすのが芸術とされる。ところで、限界への露呈とは他なるものへの露呈である。したがって、岡崎自身の実践としての芸術が他者たる我々に露呈するとき、可動的で可塑的な主体が造形されるのである。岡崎の仕事が狭義的な芸術にとどまらず、建築、環境文化圏の構築から批評まで及んでいることは、彼の含意するところの射程の広さを表している。また、ナンシーの共同体論にも及ぶ可能性が残されている。

 岡﨑乾二郎を論じるには紙幅も知識量も足りなさすぎるが、このように身体論とも接続できれば、ドゥルーズのリゾームや生成変化の概念にも連関しており、彼の著作を読むことは大いに示唆がありそう。会期ギリギリだったが本当に行ってよかった。

[左]背後から火事が迫ってきたとでもいうの、この顔の青さは普通じゃないわ、どうしたの?ぽつりと答えます。「惜しいと思うほどのものを捉まえようと追いかけず、一生惜しんで思い出せるようにしておいたほうがいいんだよ」。そうか。胡瓜の漬け方を、老婦人から習ったときみたいに、熟した実がひとりでに落ちる音を聞いた。
[右]屋根の熱気に吹きつけられ、祖父の顔は頭蓋骨のようにもう色褪せて見える。ところで彼は何といったのでしたっけ?灼熱の焼きごてを眼にいれられようとしたときに。「僕の美しいお友達、火よ。もう少しやさしくお願いします」。大丈夫。安心なさって。姉は日傘を取りにいき、祖父は指先をまるく尖った舌で冷やしていた。
(2002)

Hear the Breakers' Deepening Roar / 气喘如牛、舳艏揺曳傾海 / Trampling, Trampling, Trampling, to Overwhelm the Shore!
(2025)

『キミとアイドルプリキュア♪LIVE2025You&I=We're IDOL PRECURE』(ライブ)

 10月18日、パシフィコ横浜。待ちに待ったキミプリのライブ。今でも余韻が残っていると言えるほど良かった。私の人生ベストライブにランクインするほどには。ライブに対する思いの丈は存分に書いたのでそちらを参照してもらいたいのだが(https://sizu.me/hal9777/posts/78c9a6dt32d8)、アニメ放送も終了目前ということで少しだけ追記。
    2025年は完全にキミプリ一色のオタク活動だったが、それは単純に髙橋ミナミさんが好きなだけではなくて、プリキュアというコンテンツに、「絆」や「つながり」というテーマに共鳴できたからというのが大きい。このことも作品終了後、感謝祭後にまとめたいが、簡潔に述べれば「キミと私」というテーゼが一貫してあったということ。そしてこのライブでもそうだったが、作品では常に「みんな」でも「君たち」でもなく「キミ」という二人称で呼び続けていた。これはライブのMCでは多少の違和感を覚えさせたかもしれないが、このこだわりが作品の肝だと思っている。他でもない「キミ」へ向けた、「キミ」とのつながりを結ぶための、アイドルという救世主的存在。詳細は次回に待たれたい。
 髙橋ミナミさんはじめ好きな人を応援するうえで、他人を勝手に物語化しないということを意識的に気をつけてきていた。しかし、彼女がプリキュアを夢だと公言し、そのための努力を惜しまなかったこと、そしてその夢を叶えステージにキャラクターを背負い立ったこと。その瞬間を目の当たりにして、想像さえも及ばないけれど、彼女のこれまでの道のりに思いを馳せてしまった。だが、それは彼女のやってきたことの結果なのだ。ただの単純なナラティブなんかではなく、複雑で曲がりくねった道。印象的だったMCの言葉をここでももう一度引用する。
今日この景色を見るために、今までやってきたんだろうなあと感じる一日でした。ここまですごくすごく長い道のりだったかなと思うけど、運命のプリキュアのキュアウインクに出会えたことが何より幸せだなって。「出会えてうれしい たのしい」って。
「運命のプリキュア」。そう述べてきた彼女だが、それは私にとっても同様だった。もともとアイドルコンテンツからオタクになり、ナナシス、プリパラ、アイカツとハマってきた中で、アイドルものとしてのプリキュア。そして彼女が演じてくれたから出会えたプリキュアというコンテンツ。私も運命的に巡り合った気がしてならない。この言葉からもう一年が過ぎていることに驚きを隠せない。

ただひとつ確かな事はやっと運命のプリキュアに出会えたって事!!

2025.01.05「キャストコメント」 (https://www.toei-anim.co.jp/tv/precure/news/2025010501.php)

アラン・レネ『ヒロシマ・モナムール/二十四時間の情事』(映画)

 11月4日、大学図書館にて。ずっと観たかったので大学に用があったときについでに観てきた。これまた人生ベスト映画に入るものを観た。昨年観た126本の映画の中で最も良かった。良かったという感想が正しいのかはわからないけれど。それくらいには衝撃的だった。映画としても、詩としても、反戦テーマとしても、様々な角度からみて優れている。
 平和のための国際映画の撮影で広島を訪れたフランス人の女優と広島の男の一夜の物語。映画冒頭のシークエンスは、男の「きみは何も見ていない」、女の「私は全てを見たわ」というセリフの反復によって始まる。女は戦後直後の広島の病院を、資料館を、新聞記事を見たと主張する。しかし男はそれを否定する。そこに存するのは「ヒロシマを見る」ということの不可能性。我々はどんなに調べようと戦禍を目の当たりにしようと、その経験それ自体を見る=理解することはできない。どれほどのものだったのかは、想像してもしたりない。
 映画終盤にかけて、女性は故郷ヌヴェールでの穢れた過去の記憶を初めて男に語る。2人は互いにヒロシマとヌヴェールを表象し、接近する。男は女をヌヴェールと、女は男をヒロシマと呼び合う。女は「私を見て!」と叫び、互いに見つめ合い映画は終わる。もはや2人は個人としての互いを見ていない。単純に視覚として見るのではなく、そこにある事実をひたすらに見つめること。見ることのできないものを見続けること。ここで示されるのは、見る=理解するという状態へ至ることではなく、その行為を続けること自体に意味があるということである。正直に述べれば、私は日常において広島を、ウクライナを、パレスチナを常に気に掛けることはできていない。しかし、その不可能性を承知したうえでも、やはり見るという行為を意思しなければならない。「見た」ではなく、「見る」「見続ける」ということ。

「大西沙織・遠野ひかる 余生ですよ!」番組イベント

 11月9日、サイエンスホールにて。ラジオの初の番組イベント。ゲストはMachicoさん。声優オタクしてて一番くらいにショックな出来事がその週のもう金ラジオで起きてしまったので、かなり傷心していたのだけど、このイベントのおかげでかなり回復させてくれた。相変わらずかなりゆるゆるしていて、一歩間違えればグダグダになりそうなのだが、それでいて面白いので不思議。板付きでこたつで寝っ転がって始まり、その上起き上がってもしばらく喋らないでニヤニヤしていたりと本当に自由すぎる空間だった。  大西さんの遠野さんとの距離感が年下後輩だけど対等にいじり合ったりと、これまでの同世代や年上の人と多く絡んでいた彼女にない感じで楽しい。イベントは番組の延長という感じで、いつも通り脱線しつつ、ゆるく楽しいトーク盛りだくさんだった。昼の部では、イベントでは初めてメールも読まれて嬉しかった。ちなみに内容としては、「それぞれの自分のファンに対してどう思っているか」ということを聞いて、これはその時直近の大西さんがゲスト出演した鈴代紗弓さんの番組イベントでファンの印象の話が上がっていたから気になっていたことだった。大西さんは「私に理想を押し付けてこない」と語っていて、私が常日頃気をつけていることが他のファンの方たちにもあるということがわかってとても嬉しかったし、それを彼女が喜ばしく思っていることにも安心した。  この3人の共通の友人でもある髙橋ミナミさんの名前も何度か上がって、個人的にテンションがあがったし、この輪の中にいても絶対に楽しいだろうから、今後のイベントに期待。最後の最後で大西さんが「こんな雰囲気でもお金取っているんだよな…」と若干不安になっていたが、これが良いところなので気にせず続けてほしい。  久しぶりのゲストではない大西さんメインのイベントだったが本当に楽しくて良かったのだが、こうなるとキャン丁目やたかにしやが復活してほしいと願わずにはいられない。

Base Ball Bear「SHIBUYA NONFICTION Ⅱ」(ライブ)

 11月16日、LINE CUBE SHIBUYAにて。2023年まで日比谷野外大音楽堂で10回に渡り開催されてきた「日比谷ノンフィクション」が、場所を渋谷に移して2回目の開催。一昨年の第1回目も参加し、それもその年のなんでもベストにノミネートしたが、今回もやはり。ツアーのように何かタイトルを引っ提げてのライブではないため、毎度自由なセットリストで昔の曲から最新曲までやってくれるのが魅力的。常に"今が最高"を更新してくるベボベ。"The End"で「僕の人生はつづく つづく」と、"PERFECT BLUE"で「もうすぐ夏がくる」と歌うように、バンドのこれからをまだまだ期待させてくれる素晴らしい構成・サウンドだったし、好きな曲ばかり聴けたので本当に楽しかった。
 前回は2階席なこともあってか、天井の高いホールだと高音が響いてしまって音が埋もれてしまう箇所が気になったのだが、今回は1階席かつそのようなこともなく全体のアンサンブル含め素晴らしかった。とりわけギターが、最近はテレキャスター・デラックスだったのが、Sugiのスターゲイザー(SSHでハムはギブソンカスタムショップのレスポールから移植したらしい)になっており、モダンなサウンドでありながら暴れる感じもありとても気持ちよかった。"SAYONARA-NOSTALGIA"が最高だった。
 すでに今年の秋には3回目の開催が決まっているし、バンドは25周年イヤーでミニアルバムにツアーも決まっており楽しみがいっぱい。

三宅唱『旅と日々』(映画)

 11月19日、近所の映画館にて。2025年公開映画のベスト。『ケイコ 目を澄ませて』(22)、『夜明けのすべて』(24)などの三宅唱監督の最新作。原作はつげ義春の「海辺の叙景」「ほん
やら洞のべんさん」で、それらを組み合わせて一本の映画にしている。映画のストーリーとしては本当にシンプルで公式サイトから引用。
強い日差しが注ぎ込む夏の海。ビーチが似合わない男が、陰のある女に出会い、ただ時を過ごす――。脚本家の李は行き詰まりを感じ、旅に出る。冬、李は雪の重みで今にも落ちてしまいそうなおんぼろ宿でものぐさな宿主、べん造と出会う。暖房もなく、布団も自分で敷く始末。ある夜、べん造は李を夜の雪の原へと連れ出すのだった……。
映画『旅と日々』公式サイト(https://www.bitters.co.jp/tabitohibi/)
 海でのシーンから始まり、それが脚本家である主人公の作った映画(劇中劇)であることがわかり、その後旅を勧められて雪国へと行く。それだけ。それだけなのに生命感に溢れ、様々な感覚を刺激されるような何度も観たくなる映画だった。

 何でもかんでも言語化が言祝がれる昨今において、この映画の提示するテーマは一層重要性を持つ。それは、主人公・李のあるセリフに凝縮されている。

言葉から遠いところでそのままずっと佇んでいたい。しかしいつも必ず言葉につかまってしまう。 
  書くこととは未知のなにかに名前をつけること、言葉を与えることである。脚本家である彼女はまさに表現したい未知の感情や感触を文章にすることを生業としている。しかし、言葉が与えられた途端、それは名前を得て未知のものではなくなってしまい、そこにあったはずの未知という輝きや戸惑いはそれを失う。脚本家の李が行き詰まりを感じているのは、このジレンマによって書くべき言葉を取り逃がし続け、言葉が逃れていくからである。

 この記事の冒頭の文章もここに由来している。常に先にあるはずであろう言葉。しかしそれが一旦既知の言葉になってしまえば、そこにある感動は失われる。それでも言葉を用いて、言葉を追いかけ続けて書くのである。なぜなら、言葉によって生まれる新たな感触というものも同時に存在するからである。それは単なる言語化という枠で収まるものではない。そこからはみ出る何かに触れることが、未知の手触りを得ることが、言葉によって可能となりうるのである。

 この映画はそれを映像によって表現している点が非常に素晴らしい。つまり、映像という言語によってその限界に触れようとしているのであり、実際にそれは成功している。劇中劇を用いて世界をつなぐことによって、虚構と現実を、過去と現在をつなぐことによって、さらには他言語(韓国語、日本語、訛り)をつなぐことによって。映画は李が再び筆を取り、そして何もない雪道を一人歩くというシークエンスで終わる。それは彼女が再び言葉を追いかける旅に出たということであるのだ。

 言葉についての映画を、こんなにも言葉少なに映像で語ることができるのかとすっかり関心してしまった。これからの人生で何度も観たい一本。

俳協65th × 声優朗読劇フォアレーゼン 〜総天然色〜<東京>(イベント)

 11月29日、東京亀戸文化センター カメリアホールにて。2025年は髙橋ミナミさんが朗読劇に3回も出演してくれたおかげで、生のお芝居を堪能する機会が多かった。その中でも軍を抜いて良かったのがこちら。他出演キャストは、熊谷健太郎さん、狩野翔さん、直田姫奈さんに加え、ダブルキャストで皆川純子さんとチョーさんという豪華声優陣に、望月晶さんによるピアノ生演奏つき。
 ストーリーは1960年の東京の町工場が舞台。劣等感を抱く青年(熊谷)が町工場に地方から上京してくる。寡婦/夫の工場長(皆川/チョー)、その一人娘(髙橋)、先輩従業員(狩野)で構成される工場に居候してきた彼だが、まだどこにも居場所を見いだせないでいる。また、この娘も親を一人亡くし、親友(直田)は大企業に務めることとなったが、彼女は半ば仕方なく家業を手伝う日々で大学も諦め、やりたいことはできないでいた。ある日、彼の機械操作の不注意で先輩(狩野)を事故に巻き込みそうになる。こっぴどく叱られた彼は行き場をなくしそのまま帰郷してしまおうとするが、様子を見に来た娘が引き止めようとする。2人は心の内をぶつけ合い、互いの存在やこれまでの行いが肯定され、かかっていた霧は晴れ、世界の色鮮やかさに気がつく。まるで、「総天然色」と呼ばれていたフルカラーテレビのように。そして2人は恋人として結ばれる。
 この朗読劇で最も驚かされたのは、ダブルキャストによる変化である。それは女性・男性の入れ替わりによるキャラクターの性質の変化ももちろん含まれるが、メタ的な視点で明らかに他の役者の芝居が変化していたことである。今回は一役だけがダブルキャストであり、他の役者陣は同じ役を2回演じていたわけだが、その変化は顕著だった。ここで興味深い点は、物語の概要からもわかるように、ダブルキャストであった役どころは端役であり、セリフは比較的少ないにもかかわらず、この2人が芝居の全体を率いていたということである。
 最大の違いは表現形式にある。皆川さんのいた第1部ではロマン主義的演技、チョーさんのいた第2部ではリアリズム的演技であったと言えるだろう。第1部では、皆川さん演じる母親像がとても感情的で温かみがあり、それにつられるように他キャストも情感たっぷりに演技しており、それは終盤の会場のすすり泣く音にも表れていた。一方で第2部では、チョーさんは、朗読劇にもかかわらず、セリフをすべて暗記しており台本を見ずに演技していて、それが独特の間を生んでいた。また、声色や態度も1960年当時を意識してか、強い父性(悪く言えば家父長制の感じ)が滲んでおり、強い緊張感も醸し出していた。それはとりわけ主人公の青年(熊谷)の気弱さを引き立て、終盤のカタルシスへと見事につながっていた。この両者の差異は作品の印象さえ変えた。第1部は感動的な恋物語であったのに対し、第2部はより切実な実存の物語へと姿を変えていた。たった一人キャストが変わるだけで作品全体まで変化してしまうということを目の当たりにして、キャスティングの重要性をこの身をもって実感することとなった。
 終演後にはキャスト同士でアフタートークがあったのだが、髙橋さんは演技に対して、これまでは自分の中で完璧に作り込もうとしていたが、今は「作りすぎずその時々の人たちとのセッション、会話を楽しむ」ということを仰っていた。今回の朗読劇における変化は、そういう柔軟性を備えているからこそ生まれたものだったであろう。また、彼女の演技には、感情の機微やキャラクターの背景(亡くしているのが父なのか、母なのかということなど)にも細やかな変化が感じられて、とても良い観劇体験ができた。とりわけ朗読劇に行くと感じることだが、髙橋さんの演技を前にすると、一度に色んな顔が見え隠れしていてとてもおもしろい。
 余談だが、物販であった朗読劇主催のフォアレーゼンのグッズが当たるガチャガチャで、大当たりのサイン入り缶バッジを当てることができて、しかも他のキャストのもある中で髙橋さんのをドンピシャでゲットした。このような思い出深い公演でさらに思い出の品も獲得できてとってもハッピーだった。

100億年LOVE(YouTube)

 Aマッソ 加納×ラランド サーヤ×3時のヒロイン 福田の3人によるチャンネル。多分2025年一番更新を楽しみにしていたもの。基本3人によるトークしかないのだけど、テンポ感が心地よいし、ボケとツッコミが頻繁に入れ替わるのも楽しい。ラジオ的な感覚で楽しんでいる。どの動画がと言われると難しいのだけど、2025年公開では小麦断ちしている加納のためにグルテンフリーのレストランに行った動画がおもろい。朝井リョウの『イン・ザ・メガチャーチ』でも出てくる話題で、男性にはない女性同士の連帯、というものに少し憧れがあるのだが、この3人は羨ましいくらいに楽しそうで良い。
 芸人のライブにはまだ行ったことないのだけど、このチャンネルの単独が決まってめちゃくちゃ行きたかったのに抽選に落ちた。残念。今後の大きい会場での開催に期待。

終わりに
 書き連ねていたらかなり長くなってしまったし時間もかかってしまった。そしてこう振り返ると11月に重なるように素晴らしい出来事がたくさんあって、たしかに年末にかけてとても充実していた一年だったなと思う。一番イベントに行き一番映画を観た年だったおかげか、ここ数年で一番満足のいく年だった気がしている。今年もたくさん旅に出て、言葉を追いかけ続けていきたい。

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