『暇と退屈の倫理学』における問題点
前回の記事 では、『暇と退屈の倫理学』の第六章で提示された「環世界間移動能力」の妥当性について議論をし、それは認められないという結論に至った。ユクスキュルの環世界の概念に倣って考えると、経験によって環世界が変化・拡張したり、サリエンシーやトーンによって環世界の中で主体にとって重要となる部分が変化することであるということが認められる。國分はそれらをまとめて移動と述べていたのであった。 では、これが結論においていかなる問題があるのだろうか。 まず、本書にて出される三つの結論をおさらいしよう。 1. 理解する過程を重要視し、単なる情報の奴隷になることを避ける。(反省的認識) 2. 贅沢を取り戻す。退屈の第二形式における気晴らしを享受(浪費)する 。=<人間であること>を楽しむ。 3. 2を前提に、贅沢・気晴らしを思考の対象としてそれにとりさらわれる。=<動物になる>。 この中で環世界間移動能力が問題になるのは、3つ目の結論である。國分は、人間は環世界間移動能力が他の動物よりも相当高いために一つの環世界にとどまることができず、一つの環世界にとどまっていられないから退屈が生じると言う。そして人間が退屈を逃れるのは、そうした人間らしい生から外れた時、つまり一つの環世界にひたっている状態=<動物になる>時であると結論づけた。 しかし、環世界間移動などないのであればこの論理はおかしい。<動物になる>時などないのだから。やはり主体の周りに存在するのは一つの環世界のみであり、それが変化・拡張しているのだ。 その一方で、結論としては同じ所に収束してしまう。つまり、<とりさらわれる>状態によって退屈は(一時的に)回避されるということだ。前稿追記にて、「環世界間移動はないが、なぜ退屈するのか?」という問いの答えとして、サリエンシーが<とりさらわれ>の状態を生み、それが慣れ・習慣化によって消えてしまうたびに退屈が生じるという結論を出した。 自ら退屈を回避するためには、サリエンシーを能動的に起こす必要があるが、最も身近であることはやはり思考することであるのだ。 だが、本書が抱える問題はこの先にある。國分は彼が丁寧に批判していたハイデッガーと同じ過ちに陥っている可能性があるということだ。 ハイデッガーは、人間に環世界を適用するのは間違っていると主張した。これは人間には...