「環世界間移動能力」は本当に存在するか?(※追記あり)
「環世界間移動能力」とは何か?
そんなものが存在するのか?
國分功一郎(2015)『暇と退屈の倫理学 増補版』の第六章「暇と退屈の人間学―トカゲの世界をのぞくことは可能か?」まで読み進めて、この疑問が生じたので整理したいと思う。
以前にユクスキュル・クリサート(2005)『生物から見た世界』日高敏隆・羽田節子訳を読み、環世界という概念を知ったが、どうにもそこからの論理の発展が腑に落ちなかった。
國分は環世界間移動能力をこう定義している。
環世界を移動する生物の能力。
これでは定義にはなっていないが、 同時に環世界の違いの大きさ・程度を示すものとして
一つの環世界から別の環世界へと移行することの困難さ
を挙げており、國分の言うこの「移動」とは端的に言えば、
環境の変化への適応や本能・知覚の変化、環世界の変化
であると考えられる。しかし、本当に環世界を移動することなどあるのか?
まずこの2つの本において、今回の環世界の議論と関係のある前提について書き出す。
前提:
・人間は定住をするようになってから退屈が生じた。
・生物は進化の過程で環世界を変化させる
・生物は環世界に新たなシグナルを組み込むことができる
次に、前提①の定住に焦点を当てて環世界について考える。國分によると、遊動生活では移動の度に環境への適応が必要で、それが退屈させる余裕を与えなかったが、定住生活への移行に伴い、ある場所での生活に慣れてしまうと人間は退屈と向き合う必要性が出てきた。
ここで定住の以前と以後で、人間が持っていた環世界は異なると考えれられる。なぜなら、狩りや採集、一時的な生活の場などを探したり、場当たり的に道具を利用するために知覚する能力は、定住以降は必要性が薄れるからだ。種が存続する目的を果たすためには、それぞれで重要性の高い知覚器官は異なると考えるのは当然だろう。
定住以前と以後では、人間の新たな環境への適応という意味において、種の進化と考えられる。定住のために必要な知覚能力は新たに備わったが、他方でそれ以前の能力は明らかに劣化しているためだ。しかしここでは新たなシグナルを組み込んだわけではない。つまり、定住への過程において、人間は新たな環世界を獲得したと言える。
環世界とは、そもそもユクスキュルの提示した概念に従えば、作用空間・触空間・視空間の3つを主体が知覚することで形成されるものである。國分は、例えば電車が来るまでの待ち時間の気晴らしで地面に絵を描く行為によって、視界は地面を平面に捉え、周りの雑音は気にしなくなることで、その人の環世界は全く別物になる、つまり環世界間を移動していると言う。
これは単に人間が何に注目するか、つまりサリエンシー(Saliency)によって人間が知覚する空間が異なるということだと考えられる。しかし当然ながら、ある人がその行為をする前から地面は足によって知覚している。つまり、その人の環世界には最初から地面は存在する。したがって、人間はある行為を行う際に、自身の環世界のある空間的部分に着目しているだけだと言えるだろう。言い換えれば、環世界を移動しているわけではないということだ。
また、タバコを吸う時でも、その形状の変化を眺めてゆったりと過ごすことで、時間の流れが変化、つまり環世界が変化すると言う。ユクスキュルによれば、時間は環世界の中で知覚される瞬間の連続であり、空間とともに環世界の骨組みとして主体が支配しているものである。ユクスキュルは知覚時間を「分割できない基本的知覚、いわゆる瞬間記号」、つまり知覚可能な最小の瞬間(人間であれば1/18秒)として定義しており、それぞれの環世界において時間の流れが異なることを説明している。しかしこの知覚時間の違いはあくまで生物の種の違いに限定され、その種の個体差までは言及されていない。これは生物の知覚器官が種によってほぼ一定であるからであろう。
では、なぜ時間の流れが場合によって異なるように感じられるのか。これも”時間”というサリエンシーに注目しているかどうかで説明が可能である。タバコの変化の経過という時間に焦点を当てているために、時間が長く感じられるのである。実際、心理学において「時間の経過に注意が向けられる頻度が高いほど時間がより長く感じられる」という研究結果があるそうだ。つまり、この場合も環世界の変化ではなく、環世界の時間的部分に着目しているだけであると考えられる。
盲導犬が自身の環世界を主人の環世界に近づけるのは、困難であるがユクスキュルも可能だと述べている。これは犬にとっての環世界に新たな知覚標識を組み込むのである。この意味においては、國分はこれも環世界の移動と述べるが、環世界の拡張というほうが正確であろう。同様に、人間が知識の獲得によってこれまで気にしなかったことに気づくようになるというが、これも環世界の拡張というべきであろう。なぜなら、それまで自身にあった環世界との違いは、その新たな知覚標識にしかないのだから。
ここまでの議論をまとめると、(1)進化の過程で環世界が変化することがある、(2)サリエンシーによって環世界のどこに注目するかが変わる、(3)環世界は拡張可能性を持つ、ということになり、また(4)環世界移動能力という國分が示した概念は妥当ではないと考えられる。
ただその一方で、ユクスキュルは「魔術的環世界」が存在することにも言及する。環世界は外部からの刺激とその知覚から成立するものであるとされていた。しかし、例えば道端のゴミ袋に対して色や場所などの思い込みによって猫に見間違えたり、探しものをしていて、本当は視界に入っているにもかかわらず知覚できていなかったりすることもある(探索像による知覚像の破壊)。こうした現象は主観によって作られる環世界では、人間に限らず往々にして起きるものであるようだ。このような主観的産物は、主体の個人的な体験が繰り返されて形成される。さらに不思議なことに、主体の一回だけの経験や、時には経験してさえいないことが生得的に、主観的産物として個人の環世界に現れることがある。これを「魔術的環世界」と呼ぶ。つまり、環世界は個人の主観によっていかような形にもなりうるのだ。
それでは、この魔術的環世界は環世界移動能力を支持するのだろうか。つまり、この魔術的環世界の出現が移動と言えるのか。
ここでユクスキュルが示したヤドカリの例を紹介する。ヤドカリにとって円筒形ないし円錐形の輪郭を持つある一つのものは、時々の気分によってその物体の意味=トーンが変わる。ヤドカリがイソギンチャクを、居住としての貝殻を保護するために用いたり(保護のトーン)、貝殻を失うと居住として用いたり(居住のトーン)、飢えている場合には摂食したり(摂食のトーン)する。これはその環世界において知覚したものが、主体の気分によって異なる意味をもつことを意味する。
これが意味することは、トーンによって環世界の中の対象物がくっきりと浮かび上がり、主体は行為へ結びつけることができるということである。したがって、ある動物の可能な行為の数が増えるほど、その環世界に存在する対象物の数も増える。また、経験によっても対象物は増加しうる。これによっても、先の地面に絵を描くということ(=トーンの変化)や人間や盲導犬が知識を獲得し環世界を拡張させることが説明できる。
魔術的環世界においては、経験していないことでも、環世界に主観的な現象が出現するのであった。これもまた、ある物体ないし空間に対して(空想的/生得的に)主体がトーンを与えることと言える。そうであるなら、やはり魔術的環世界の出現もまた、環世界におけるトーンの変化、またはその拡張に該当する。したがって、魔術的環世界も環世界の移動とは言えない。
……
ここまで書いてきて、「もしかして國分はこの(1)~(3)までのことをひっくるめて『移動』と呼んでいるのではないか?」と思い始めてきた。しかし、どうにも國分は大小様々な環世界が無数に点在しており、それを人間は比較的容易に行き来できるように書いている節がある。やはり、環世界の中の一部に注目することと、別の環世界に移動することは異なるように思えるし、また環世界が拡張することも環世界の移動とは異なるように思える。新たな環世界への変化は移動と捉えることもできるかもしれないが…。
この稿のはじめに、國分は環世界の違いの大きさ・程度を示すものとして、「一つの環世界から別の環世界へと移行することの困難さ」を挙げていると書いた。環世界はどの生物の主観にも存在し、また変化・拡張しうる。國分は、例えばトカゲは人間の環世界を経験しないのは、環世界が大きく異なるからであると述べ、ではその大きさとは何かと問い、移行の困難さの程度を提示した。これは逆に人間がトカゲの環世界を経験できないことも説明できるし、同時に、人間が別の人間の環世界を経験しうることも説明する。だが、それはあくまで基本的に環世界が生物の知覚可能性に制限されているからではないだろうか。人間に知覚できることは他の人間にも知覚可能性があり、トカゲにはない。逆にあるトカゲに知覚できることは他のトカゲにも知覚できる可能性があるが、人間にはできない。至極当然のことであり、それだけではないのか。これは移行の困難さというよりも、知覚器官の複雑さの違いにすぎないのではないのか。
こんなにも長々と書き連ねて、結局「移動」という言葉の選択が良くなかっただけだったのではないかと思えてきて、あまり整理がつかなかった。
本の続きを読んで再考しようと思う。
※追記(『暇と退屈の倫理学』を読了)
人間は一つの環世界にとどまれない、環世界を移動するという主張は、人間が退屈するという結果につなげるために無理やり作っているのではないだろうか。人間が退屈するという事実(他の動物はわからないが)が存在するのは確かだ。しかし、やはり上記の議論を理由に環世界間移動は認め難い。この概念は、これまでに本書で示されてきた退屈の回避や気晴らしと関連づけるために作り出されている。人間は何か特定の対象に<とりさらわれ>続けることができないというのは、人間が自由であるからではなく、人間の知覚器官が相当に発達しており、環世界の変化、拡張が容易に行われるからである。つまり、ある特定の事象に<とりさらわれて>いる状態を、比較的早く自分の環世界内に取り込み、慣れを生み出すことで、<とりさらわれ>の状態を解除するのである。
これによって、「なぜ環世界を移動することはないのに退屈するのか?」という疑問にも答えることができる。
これは、付録の「傷と運命―『暇と退屈の倫理学』新版によせて」にて述べられていたことを援用できるだろう。不思議なことに、(というか環世界間移動能力など存在しないから?)國分はここでサリエンシーについて触れるのである。第七章で快原理が紹介されるが、人間は安定した状態を快、興奮状態を不快と認識する。主体は様々なサリエンシー、外部からの刺激を経験することで環世界、自己を形成していく。そうした外部刺激は興奮状態となるため習慣化することで刺激ではなくなりあまり気にしなくなる。そのように快を求めて比較的安定した状態を形成していく。しかし、習慣化しサリエンシーがなくなれば、つまり何をすることもされることもなくなれば、暇になり、退屈に苦しむ。何にも<とりさらわれ>ていないからだ。つまり、サリエンシーが<とりさらわれる>状態を生むと考えられる。
先の地面に絵を描く例でもタバコを吸う例でも、やはり何かのサリエンシーによって<とりさらわれる>ことができ、しかしそれは人間にとってはすぐに慣れてしまうので、そこからサリエンシーは消え失せる。だから退屈になるのだ。ここに環世界の移動など存在していない。そこにあるのは、環世界の変化や拡張なのである。
随分と長くなってしまったので、本書の結論部分に関しては別途書こうと思う。
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