ハイデガーによる〈動物は世界貧困的である〉というテーゼはどういう意味か。

 木田元(2000)『ハイデガー『時間と存在』の構築』を読み、そのメモついでに以前の國分功一郎(2015)『暇と退屈の倫理学』 でのハイデガー批判への反駁ができそうだったのでそちらも書いてみる。


 まず準備段階として、マックス・シェーラーによる「環境世界繋縛性」および「世界開在性」概念からハイデガーの「世界内存在」への影響の紹介。

 一般の生物はそれぞれの環世界に完全に取り込まれており、そこに繋ぎ止められ縛りつけられている(環境世界繋縛性)。他方で、精神としての人間はおのれを超えでていける存在であり、それゆえそのつどの環境世界に閉じこめられることなく、世界へと開かれている。人間はそれぞれの世界を持ちうるという点において、生物学的な環世界からある程度抜け出し、それに距離をとり、世界というより広大な場面を構成し、それに開かれて生きている。(世界開在性)

 世界開在性の概念はハイデガーの「世界内存在」の概念形成に影響を与え、彼は『形而上学の根本諸概念―世界・有限性・孤独』において、〈石は世界をもたない〉〈動物は世界貧困的である〉〈人間は世界形成的である〉という3つのテーゼを軸にして一種の階層理論を展開している。なお、世界内存在とは、現存在の本来的なあり方を規定する現存在のその基礎的な存在構造のことであり、ハイデガーの造語。


 では、なぜ人間に特有の〈世界〉が可能になるのか。

 一般に動物には、過去も未来もなく、狭い現在、つまり現在与えられている環境がすべてであるので、自らの環世界から出ることはなく、繋ぎ止められている。

 他方、人間にあっては、現在にあるズレ、ある差異化(ないし差延)が起こり、過去や未来という次元が開かれる。記憶や予期というのはそうした次元への関わり方を言う。人間はそのようにして自らを時間の次元に開くことで、己を時間化する。

 ハイデガーはこの人間特有のあり方、存在構造を「時間性」と呼ぶ。この時間性によって、人間は現在与えられている世界に、過去の世界や未来の与えられうる世界を重ね合わせ、それらを相互表出可能な関係に置くことができる。したがって、人間はそうした多様な世界構造をそれぞれ一つのアスペクトとして持つ一次元高次の構造を構成しており、これが〈世界〉と呼ばれるもので、この〈世界〉を構成し、それに適応して生きる生き方が〈世界内存在〉と呼ばれている。

 ここでさらに派生して、メルロ・ポンティが『行動の構造』で導入した「シンボル機能」と「シンボル行動」について。そもそも動物における環世界の可変性ないし弾力性は、本能とは本来無関係の刺激の複合体や刺激相互の関係(つまり刺激によって起きる変化)への反応・適応によってもたらされる。このような反応・適応を「シグナル行動」と呼ぶ。

 しかし、このシグナル行動が高度の段階に発達しているチンパンジーやボノボの行動と人間の行動の対比によって、さらに人間が〈構造の構造〉を構成する高次の能力が見える。高度なシグナル行動が可能な動物は、道具を用いることができるが、それはあくまでも〈現在〉与えられている環境に限定される。例えば、バナナと棒が同時に与えられれば、それらを関係づけて使用することができるが、離れたところに置いてある棒に対してバナナを取るという局面を持つ同一の対象物とみなすことが出来ない。動物にとっての対象は、〈現在〉の環境においてその都度現れるのみなのである。つまり、それぞれの〈現在〉の環境においては対象を様々なパースペクティブのなかでのその対象の現れを相互表出可能な関係に置くことができるが、対象そのものに対して〈物〉という一般的な概念として高次の構造を構成することができない。

 他方で、人間は環境における対象から諸関係をさらに関係づけ、様々な構造をさらに構造化する機能、「シンボル機能」を持つ。こうした機能に基づく行動形態を行動の「シンボル的形態」あるいは「シンボル行動」と呼んでいる。先の〈物〉の例だけでなく〈空間〉一般に関しても、人間は自らの〈現在〉の運動空間と視覚空間に対して相互表出の関係を見出し、それらを相互に切り替えることができる。言いかえれば、特定の感覚与件に限定された関係ではなく、〈空間〉一般の概念を構成し、そこに任意の感覚与件を定位することができたり、視覚的刺激を自己受容感覚(proprioception) に翻訳したり、またその逆ができたりする。

 このような「シンボル機能」は人間の「時間性」によって、つまり現存在が過去―現在―未来という時間的次元を開くことによって可能になる。なぜなら諸関係の高次の関係や構造の構造化というのは、記憶や経験、与件、予期といった多様なアスペクトを持つ構造を構成することで可能になるからである。したがって、ハイデガーの〈世界〉とは、構造の構造化によって構成される高次のシンボル体系のことであると考えられる。そして、そうしたシンボル体系を構成し、それに適応して生きること生き方が〈世界内存在〉ということになる。ハイデガーは、(自身でシンボル機能と述べたわけではないが)この機能によって生物学的環世界を超え出て〈世界〉へ開かれることを「超越」と呼んだ。

 ハイデガーが『形而上学の根本諸概念』にて「環世界を生きる動物にとっては、物そのものとか、物それ自体といったのものが、構造的に欠けている」と述べたのは、このシンボル機能の意味においてであろう。言い換えれば、人間と動物の間には道具使用の階層性という点において明確な差があるということである。したがって、『形而上学の根本諸概念』における3つのテーゼのうち、2つ目の〈動物は世界貧困的である〉が意味するのは、人間がもつ「開明性」の欠如によって動物の環世界は貧しいものであるということである。人間がもつ「開明性(Offenbarkeit)」とは、人間性の本質に属する〈何かを何かとして会得すること〉の可能性のこと(『存在と時間』における世界了解)であり、動物性の本質においてはそれが剥奪されている。また、抑止解除の輪(ユクスキュルの機能環)において、動物は衝動の停止と解除が繰り返され、これが動物の分節された世界の構造を統合的に規定する。そして、こうした動物の本質契機の全体性は「とらわれ(Benommenheit)」の状態にあり、動物の環世界での行動の可能性の条件が規定されている。

 ハイデガーによれば、人間と動物の差異は、この「開明性」と「とらわれ」の違いにある。つまり、人間は世界を超越して〈何かを何かとして会得すること〉、構造の構造化によって環世界にとらわれることなく〈世界〉を構成(形成)することができるのに対して、動物はこの「開明性」が剥奪され、環世界にとらわれている(世界貧困的である)。


 ここから國分のハイデガー批判への反駁へ。

 『暇と退屈の倫理学』において國分が、ハイデガーは人間が環世界にとらわれていない、人間に環世界を適用しないことに対して、また人間の本質契機である開明性に対して、なぜ人間だけが(また、本当に人間は)「世界そのものに関わることができる」のか、「人間は世界のあらゆる事物を事物そのものとして認識できる」のかと批判した。具体的に國分は、「ハイデガーは、トカゲには太陽を宇宙物理学的に問うことはできないと言う」が「どうして太陽を宇宙物理学的に問うことが、太陽そのものと関わることと言えるのか?」と批判する。トカゲはトカゲの、宇宙物理学者は宇宙物理学者の、それぞれの環世界の中で太陽と関わると言えないのかと。

 この批判は上記のハイデガーの主張とはズレていると言わざるをえない。なぜならば、ハイデガーが人間と動物の差異を見出している「開明性」は、構造を構造化して理解する〈能力〉に根ざしている。つまり、人間一般と動物一般の違いを明確にしようとしているのである。宇宙物理学者とそうでない人の環世界ないし〈世界〉の見え方を問題にしているわけではない。同様に、「トカゲやミツバチがそれぞれの環世界を生きるように、宇宙物理学者やひなたぼっこする者がそれぞれの環世界を生きるとはいえないのか?」という主張は的外れである。「何をしているのか」ではなく、根本的に「何ができるか」が問題なのである。

 結局『暇と~』で國分はこの批判を基に人間にも環世界を適用しつつ、人間と動物の違いを「環世界間移動能力」に見出すが、これも以前の2つのポストの通り、そのような能力は見いだせない上、國分がハイデガーを人間中心的であると批判したのと同様に、國分を人間中心的であると批判したのでそちらも参照されたい(https://dieariki.blogspot.com/2022/07/blog-post_30.html#more)。

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